立ち読み:新潮 2017年8月号

海亀たち/加藤秀行

1

 そもそものきっかけは営業先の代官山にある美容室で見た一枚の写真だ。
「この写真、凄いですね」
 閉店後の店内で、店長は嬉しくもなさそうに、
「先輩が送ってきたんだよ」とレジの金を数えながら言った。
「どこですか」
「ベトナムのダナンだって」
 聞くと、一時の美容師ブームが過ぎ去って、美容業界もいよいよ頭打ちとなり、いつまでも若いわけじゃないし、サロンもどんどんつぶれるから、気の利いた美容師はいち早くアジアに新天地を探して飛び立っているという。
「腕のいい先輩だったし、なにより機転が利く人だったよ。これからはアジアだ。そう言って日本でやっていたサロンを閉じてベトナムに最初の店を出したのが六年くらい前だったかな。あれよあれよと言う間にいくつも店舗立ち上げて、かなり上手く行ってるらしいよ」
「へえー、凄いっすね」
「センスある人だったから、そういや写真も巧かったね」
「あー、やっぱりですか」
「そこまでセンスも根性もない俺は代官山で細々と店を続けてるわけだ」
 二面しかない鏡の前で自嘲気味に言う店長に、いつもの俺ならそこで「じゃあ先輩に負けないように来月も広告バンと張って新規取りに行きましょうよ!」と間髪をいれず煽る。だが俺は一言も口にできず、その海辺の写真に心を惹かれていた。
 白砂に生えた椰子の木。濃く青い空。エメラルドグリーンの海。生ぬるい海風が吹き渡る一枚の写真。
 こういう海辺に店を構える。この地球のどこかに、そういう人生がある。
「……なんていうお店ですか」
「え」
「先輩のお店、名前分かりますか」
「何だっけな」
 棚の奥を探り、住所を探してくれたが、結局見つからなかった。〆の作業まで手伝ったが、追加の広告枠は売れなかった。店長を手伝って、シャッターを閉めた手の感触を覚えている。その日からだ。就職して以降、埋もれていた欲望がぐっと頭をもたげた。

 就職してから二年半、俺はウェブ広告の営業マンを続けた。
 そもそも就職活動のときに大企業は受けなかった。何か重いような、これからの人生をすべて託してしまう感じが嫌だった。人生いつ何があるか分からないなら、選択肢は多い方が良いし、動きの早い、身軽な所に身を置きたい。
 そう思って選んだITベンチャーは、詰まる所どぶ板営業マン養成所だった。これはぜんぜんITじゃない。一週間でそう気づいて、むしろ就職前に気づかなかった自分と、就職後の圧倒的な現実の差分に、愕然とした。
 俺の担当は美容業界だった。夢を売る舞台の裏側はため息に溢れていた。
 営業中に行っても邪険にされるだけなので、営業後の遅い時間に根を詰めて通った。照明を落とした店内や、店の裏手、とにかく暗い所で売り込みをした。
「結局さ」
 一年目の最初の頃、表参道の繁盛店に飛び込んだら、たまたまオーナーがいた。五十歳くらいだろうか。長髪が似合う彼は店の裏で壁に軽くもたれかかり、ウィンストンの空箱を潰しながら言った。
「広告買わなきゃいけない店ってのは駄目なのよ」
「駄目ですか」
「そう駄目。上手くいかない。ジンクスじゃなくて事実。固定客がいないからね」
 俺は何とも言えなかった。その頃は上っ面の切り返しもうまくできず、暗がりに灯るオーナーの指先の火とレザーブレスレットを見つめていた。自分が乗っている土台も、それすらも上手く乗りこなせていない自分も、全部ひっくるめて否定された気分だった。
「みーんな分かってるんだよ。広告に期待するようになったら終わりだって。そんなのは実力のない店がやること。本当に実力があればちゃんと口コミで広がって客が客を呼び込んでくる。でもさ」
 商売人の目つきで俺を見る。
「現実は違うわけ。勝手に伸びる店なんてほんの一握りしかない。生き残れるのは一時代前の景気のいい頃からやってる奴らだよ。腕が良いんじゃない、運が良いんだ。もう固定客が十分ついてる。それに気付かなくて業界に新しく入ってくる子はみんな君の持ってくる、その『夢』を買い続けちゃうわけ。でも世の中で夢の値段こそ高いんだよなー」
 エアコンの室外機の上で一瞥もされずに置かれた営業資料がはためいている。その横に置かれた灰皿は薄汚れている。
「夢は買うもんじゃなくて売るもんだ」
 と笑うひげ面の口元を未だに思い出す。
 自分は意味のないことをやっているのか。夢を押し付けてるだけなんじゃないか。いや、実際に送客はしている。でも送った客は居着かないじゃないか。いや、それは美容師の腕の問題だ。安さ目当てのすぐに離れていく浮気客を送りこんでるだけじゃないか。じゃあ、広告なんて買わなければいい、自分の力を判ってくれる理想の客だけ追い求めて餓死すればいい。
 終わりの無い疑問の迷路に囚われながら毎月の数値を追った。心でどれだけ迷っていようが、目標対比の【率/パーセント】だけは、裸でシャワーを浴びていても、頭のどこかにどっかりと居座っていた。迷いながら何とか半年も続けていると、そこそこ月次の達成率も良くなり、物事をあまり深く考えないようになった。知らないうちに心の中に【回路遮断機/ブレイカー】ができていた。
 買うということはニーズがある。ニーズがないなら買わなければいい。それだけの話だ。

 生ぬるいエメラルドグリーンの匂いに満ちた午後の風。
 あの写真に出会ったとき、冷めた目で物事を見ていた自分に新しい風が吹き込んだ。俺はこんな所で一体何をしているのか。この空間に属するんだ。ここが人生の出発地でもあり、目的地でもある。
 ダナンか。
 その興奮は幾日経っても冷めることはなく、冷静に考えようとすればするほど、考えるというその行為自体が果たして正しいのか、疑わしくなった。いや、考えるんじゃない、魂の求めるまま、自分の感じるままに生きるんだ、と何回も葛藤した挙句、一週間後に俺は辞表を出していた。

(続きは本誌でお楽しみください。)