立ち読み:新潮 2020年11月号

第52回新潮新人賞 受賞者インタビュー
別れをいかに表現しうるか/小池水音

――受賞作「わからないままで」は、数十年をかけて変化していく家族の姿を、多視点のカメラで写すように丹念に描き出した作品です。本作誕生の経緯を教えてください。
「家族について」というテーマで、大学時代に短いエッセイを書いたことがありました。ライティングを学ぶ講義で出た課題です。そのときに、見よう見まねながらも何かを書き表すことができたことの手応えと、一方で、これではまだ何も書けていないという実感がありました。幼い頃に病気で臥せっていたひと晩について書いたのですが、あとから読み返してみて、自分はきれいな記憶だけを切り取ってしまっていると感じました。「きれい」ではないことも書かなければと思うとともに、そうした事柄をも書くことができたならば、清濁という価値基準から離れた何かが立ち上がってくるかもしれないという予感もありました。
 受賞作でそれができたか自信はありませんが、多視点がひとつずつ重なっていくうち、はじめは自分でもわからなかった小説全体の姿が、少しずつ見えてきた気がします。

――主要登場人物には固有名詞が与えられず、同じひとりの人間が「父親」「男」「弟」など、様々な呼ばれ方をします。なぜこのような叙述形式を採用したのでしょうか。
 この作品で書こうと試みた内容に、たまたまうまく馴染んだのがこの形式でした。今作までに、途中でうまくいかなくなってしまった文章がいくつかありました。どれも受賞作とはまったくちがう内容でしたが、何より人称がうまくはまりませんでした。一人称も、名前を用いた三人称も試しましたが、書いていて、あるいは読み返していて、自然に感じられるリズムを作ることができなかった。ところがこの作品では、「父親」「息子」という呼び方で第一章を書き、第二章でその「父親」を「男」として書いたところで、何か動き出すものを感じました。
 それはなぜなのか。ぼんやりとは自覚しつつ、書いている間は言葉として理解していませんでしたが、最後の章で、手順としてほぼ最後に書いた一節が、自分にとってのひとつの説明になりました。死を目前にした母親の「自分はもうすぐこの往復を終える」から始まる箇所です。人の本質や本心は独立して存在するのではなくて、常に視点と関係によって移り変わるのだという考え方を、この形式が明示的に表していたように感じます。

――冒頭の父子が紙飛行機で遊ぶ場面、終盤で医師の息子が「わるいイルカ」の存在を尋ねる場面など、印象的なエピソードが選考委員の支持を集めました。決して紋切り型の表現には流れない、端正な文章も魅力的ですね。
 ありがとうございます。そうした細部がどのように受け取られるかは、ほとんど想像できませんでした。ちなみに「わるいイルカ」については、電車内で子どもが親に尋ねているのを実際に耳にしたんです。背後からこの質問が聞こえて、ハッとして振り返り、親子をしばらく観察しました。「んー、いないんじゃない」と親御さんが素っ気なく答えていたのが忘れられませんでした。
 文章については、読書のかなりの割合を「新潮クレスト・ブックス」などの海外の現代小説が占めているので、少なからぬ影響を受けていると思います。同時代に生きる作家の小説、それも米英に限らないさまざまな地域のものを日本語で読むことができるという事実は、折に触れて思うたび静かに感動させられます。祖父母の世代が体験した戦争や移住の記憶が、国外でいかに表現されているかという点も関心を持って読んでいます。あとは、「文体が男性的でも女性的でもない」と、以前、自分の書いたものを読んでくださった方から言ってもらえたことがありました。

――作品の中心には、肉親の死を残された者はどう受け止めるべきかという大きな問いがあるように思われました。ご自身の実体験も関係しているのでしょうか。
 そうですね。近親を亡くした経験によって、小説を読むことや書くことが、自分にとってより切実なものになっていったと思います。大学時代、卒業論文のために、近親との死別が中心的テーマとなっている文学作品について、まとまった読書をしました。ロラン・バルトが母との死別後に記した『喪の日記』を出発点にして、幸田文が父・露伴を看取った体験を綴った『父――その死』や、三木卓が妻との出会いから別れまでを書いた『K』、江藤淳『妻と私』、佐野洋子のいくつかの著作などを、メモを取りながら、繰り返し読みました。過去の膨大な記憶のうち何を書き、何を書かないか。またどれだけ感情を統制し、あるいは溢れるままにさせているかといった作品ごとのちがいを意識的に読み比べたことは、今回の小説を書くための大きな学びになったと思っています。
 卒業論文を終わらせてからも、最近ではソナーリ・デラニヤガラの『』やイーユン・リーの『理由のない場所』など、喪失を描いた作品は読み続けています。何も肉親の死だけが取り組みたい題材ではないのですが、自分の中の一貫した視点として、「別れをいかに表現しうるか」は重要なテーマになっていくのだと思います。

――「わからないままで」という本作のタイトルは、この世界に対する作者の態度表明としても感じられます。簡単に「わかってしまう」ことには抵抗がありますか。
 僕自身、多くを「わかった」ことにして日々を過ごしているので大きな顔はできませんが、抵抗はあると思います。そもそもこの作品のタイトルは当初、「とおいかなしみ」というものでした。「遠い昔に抱いた悲しみ」という意味と、「大切なひとやものがだんだん遠くなっていくことそれ自体の悲しみ」という、二つの意味を重ねたものです。しかし、後半に進むにつれて、悲しみという言葉だけでは包括できないような、漠然とした居心地の悪さを感じるようになり、再考しました。わからないことは、それ自体が苦しみです。ラベルを貼り大別して処理できたなら、よほど楽に生きられる。今回、書くことができてよかったと思うのは、何人かの登場人物が、わからないことを、わからないこととして抱えたまま、長い時間を生きた末に、「それでもわたしはこう思う」という判断や行動を示す様を描けたことです。判断や行動の結果が良きに転ぶにせよ、悪しきに転ぶにせよ、人生というものが脈々と、他者と連関しながら続いていくという大きな流れが見渡せる作品になっていたらと願っています。

――小池さんの個人的・文学的な来歴を教えてください。
 いわゆるヒッピームーブメントから影響を受けた両親と、やや歳の離れた姉の四人家族で育ちました。父は二十代の頃から熱心に仏教を学んでいたので、「これだけは読め」と仏典を差し出してきたり、ヨガや逆立ちをしていたり、かと思えば酒を飲みながら大音量でジャクソン・ブラウンのレコードをかけて歌ったり、子どもながらに「これはきっと普通じゃない」と感じていました。母も姉も歌うことは好きで、姉はCDを出したこともあります。自分も歌うことが仕事になるのではないかとぼんやり思っていましたが、思春期の頃から音楽以外にも興味が広がりました。自分自身も、周囲の友人にも熱心な読書家はいなかったのですが、仲の良い国語の先生から村上龍ドストエフスキーを教えてもらって読んでいました。同じ頃から村上春樹を読みだしたのも記憶にあります。ただ、中高一貫の男子校にいた六年間のほとんどは、サッカー部の活動が占めていましたね。強豪校というわけでもなかったのですが、部内で気の合った友人たちと過ごす時間がとにかく大事でした。大なり小なりのいざこざが絶えない家庭だったので、そういった居場所を外に持つことが、当時の自分にとって必要だったのかもしれません。
 小説を熱心に読むようになったのは、大学時代からです。先ほどお話しした死別を扱った作品をはじめ、古典や近代の作品も読みましたが、興味は少しずつ、同時代の海外作家の作品へと広がっていきました。アンソニー・ドーアジュンパ・ラヒリベルンハルト・シュリンクの作品には、深い共感と驚きを抱き続けています。最近ではオーストリアの作家のローベルト・ゼーターラーある一生』も、驚くべき作品だと感じました。カズオ・イシグロやポール・オースター、先に触れた村上春樹も、自分の中で重要な場所を占めている作家ですね。松家仁之小川洋子川上未映子の作品も、読むたびに自分の中で何かが組み替えられるような感覚があります。
 もうひとつ、自分にとって欠くべからざるほど重要なのが山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズです。車寅次郎というキャラクターはもちろんですが、作中で繰り返し描かれる再会の描写に強く惹かれます。寅次郎が妹のさくらをはじめ、団子屋の面々とする物理的な再会はもちろんですが、旅先で、あるいは柴又駅のホームでの別れ際に、相手の存在をはたと強く感じる、内的な再会が果たされる場面に、激しく胸を揺さぶられます。シリーズものを書きたいというわけではありませんが、寅さんのようなひとつの典型を作り出すことは、大きな夢のひとつです。

――今後はどのような小説を書いていきたいですか。
 受賞作では、言葉を尽くしてしまいそうになるところで立ち止まり、描写を次の場面に譲るようにして、努めて軽く書いたようなところがあります。今後、もう少し持ち重りのするような、紙幅としてもより長いものを書けたらと考えているので、まずはそれにふさわしい形式を探すとともに、より踏み込んだ書き方を身につけたいです。いま構想している作品は、二つあります。ひとつは、僕自身は会ったことのない大叔父が、交通事故で息子を亡くした後、自転車に「交通安全」という旗を立てて全国縦断したという話を基にして、その喪のありようを考えるもの。もうひとつは、死んだ母親が恋しくて泣く幼い娘に、「いつか母親は帰ってくる」と嘘をつき続ける父親についての話です。ただ、今回光栄にもこのような賞をいただけたので、自分の文章がどのように読まれるのか、その反応を踏まえて、改めて考えたいと思っています。

[→第52回新潮新人賞受賞作 わからないままで/小池水音]