立ち読み:新潮 2020年11月号

第52回新潮新人賞受賞作
濱道 拓/追いつかれた者たち

       序

 私はやむにやまれぬ事情で、二十数年ぶりに郷里に帰った。これから記そうというのは、そこで見聞することになった、私と同世代の人間たちに刻印された事件についてである。それは公には、少年ら数人が焼け死んだ失火事件に過ぎなかった。にもかかわらず、何人もがその事件の裏側というべきものを確信をもって語り、中には深く関わったのだと洩らす者もいた。
 私は偶然にも、その事件で中心的な役割を果たしたと目される人物たちとも、出会うことができた。
 とはいえ、二十年以上も前のことである。語る人によって異なるところもある。矛盾しあう情報もあったし、中心的な人物の言にかなり引っ張られたところもある。
 以下は、その事件にまつわる事実の断片を、私なりに撚り合わせたものに過ぎない。



       一

 田宮晃たみやあきら斉藤叡一さいとうえいいちとは小学校以来の友人だった。一時期において彼らは、互いにとって唯一の友人と言えたし、或いは今に至ってもそうだと言えるだろう。斉藤は小学校高学年の頃には、かつて彼の祖父が経営していた、閉鎖された医院とひとつながりの豪邸に、ほとんどひとりきりで暮らしていた。彼は物静かな勉強家で、父親の書斎か寝室でいつもノートを開いていた。ひとりには広すぎるガランとした静かな邸宅に、ある頃から田宮が入り浸るようになった。一時期、斉藤の持つゲームや漫画を当てにした小学生たちが出入りしたのだが、彼ひとりがその後も残ったかたちである。彼はいつも斉藤の邪魔にならぬように過ごしていた。斉藤の方も、いつも田宮のことを忘れ去っているようでいて、食事のときや、ちょっとした休憩のときに彼を呼ばわってもやって来ないと、目に見えて機嫌を損ねた。周囲からは頭がぬるいと思われていた田宮は、斉藤に寄生しながら、甲斐甲斐しく世話を焼いてもいた。田宮はときには斉藤の言うことを黙って聞き、忘れられていても遠ざからず傍に侍って、何の不満も示さなかった。
 彼らがこの頃にどんなやり取りをしていたのかは、あまりわからない。斉藤は当時を振り返って、具体的な記憶はただひとつしか拾い上げることができなかった。あるとき田宮は、ほとんど出し抜けに斉藤に言った。
「なあ、お前は偉くなれるよ」田宮は、斉藤が気付かないうちにすぐ後ろから、彼の熱心な勉強ぶりを見張っていたのだった。
「そうなれるように、僕を見張っていてくれよ」斉藤は気にも留めずにそう言って、再びノートに目を落とした。だが結果としてその言葉は、彼の内に深く留まったのだ。
 彼らのそのような関係は長らく続いた。高校受験が間近となった秋頃にようやく、田宮は斉藤の家に入り浸ることをやめた。同級生たちの緊迫していく空気からひとり逃れて、田宮は秋冬の日々の透明な空気の中を無為に、気儘に過ごした。やがて、斉藤が志望していた有名私立校の試験に落第したという噂だけが伝わってきた。しかし、と言うべきかそれ故にと言うべきか、ふたりは学校ですれ違っても言葉を交わさなくなった。卒業の日を除いて、彼らは全く口を利かずに過ごした。
 春になると田宮は、親類の紹介で国道沿いのディスカウント・ストアで働くことになった。そしてはじめの数週間の慌ただしさを乗り越えてしまうと、卒業前と同じ、透明で静かな日々が戻ってきた。ディスカウント・ストアの国道に面した壁はほとんどガラス張りで、単調な業務の背後でゆっくりと日が昇り、そして沈んでいった。日が暮れるといつも、田宮はほっとした。よく晴れた日には、昼夜の入れ替わりに西の空が気高く燃えあがった。だがその場面さえ、繰り返されるにつれ、たった今、目にしているものが昨日のものとも、一週間前のものとも判別できなくなった。彼は時折うつらうつらとして、この生活がはじまった初日の頃のことを夢に見た。そして、たった今自分は、小さなガラス箱のようなその頃のイミテーションの中にいるのだと錯覚し、そしてそれは目が覚めても半ばうつつなのだった。彼とともに閉店前の深夜の業務をこなす先輩の店員は、あるときから彼の前でこれみよがしに、タバコやレジの金を掠めてみせた。
「店長もよく抜いてるから」彼は言った。「数も金も、どうせ収支が合わんようになっとるのよ。お前も多少やったってバレやしないぜ」
 その提案自体は彼の興味をそそらなかった。だが、もしそれをやったなら、今日は昨日までとは違う日になるだろうか? そう考えると田宮は、何やら、喉の渇きのようなものを覚えた。
 彼が斉藤と再会したのはちょうどその頃、学校が軒並み夏季休暇に入り、私服の学生が昼間でも目立つようになった頃だった。来店した斉藤の外見は以前とはうって変わって垢抜けて、髪色は明るくなっていた。田宮を見つけた瞬間の斉藤は、以前のとおりの人懐こいような、それでいて神経質そうな表情をしていたが、歩み寄ってくるまでに巧妙に変貌して、いかにも気安そうに話しかけてきた。「田宮、そういえばここで働いてたのか」
 田宮は少なからず驚いて、ああ、とか、うん、と言うばかりだったが、斉藤は自分の見てくれに気をとられていてその返事を気にもかけなかった。もとより同年代に取り残されていた田宮には、斉藤が懸命に仕組もうとする変貌、繕おうとする化粧の意味が掴みかねた。その日以来、斉藤はしばしば店にやって来るようになったが、いつも田宮には軽く声をかける程度で、新しい、華々しい友人たちをひけらかすようにして連れ歩いていた。田宮に羨望はなかった。ただ、「あれは俺の友達なんだ」と、依然として寡黙であった彼が、珍しく同僚に自慢をした。
 斉藤はやがて酒やタバコを買って帰るようになった。田宮はいつも黙ってレジを通していたが、冬に差し掛かったある夜に突然、斉藤が尋ねた。「俺が吸うと思ってるのか?」
 田宮は黙ってただ首を振った。だがその夜、閉店後に田宮が外へ出ると、斉藤は約束もないのに店の外で待っていた。そこには真新しいグレーのSUV車が停まっていて、彼はポケットからキーを取り出すと、田宮に助手席に乗るようにと言った。
「お前、まだ十六だろ?」田宮が斉藤に声をかけるのはおよそ半年ぶりのことだった。
「車、どうしたんだ?」
「親がディーラーに預けてた。書類を見つけて、親の頼みだといって連絡したら、わざわざ家に届けに来た」
「免許は?」
「あるわけないだろ」
 斉藤は、すでに運転に慣れた素振りで車を出発させた。その物腰の割りには、微笑ましいような安全運転で国道を進んでいく。
「どこへ向かうんだ?」
「お前のアジトに行こう。久しぶりに」
 ふたりを乗せたSUV車はやがて国道を逸れて農道へ入り、街灯すらまばらな山道に入った。時折、斉藤はふざけてヘッドライトを消した。すると車外が真っ暗になりその中を車は進んでいく。「止せよ!」と本気でおののく田宮を見て斉藤は笑った。車は、勾配の急な畦道の坂を、スプリングを軋ませながら上りきって目標の場所に辿りついた。草深い高台には、夜空より一層濃い直角の影が控えていた。田宮の「アジト」と目されたその廃屋の扉口を、煌々としたライトが冬の濃い闇の中から鮮明に切り出した。彼らがそこへやって来たのは卒業の日以来だった。
「入ってみるか?」
「今はとても」田宮は首を振った。「そんな気になれない」
「お前、よくもこんなところに寝泊まりしてたな」
 中学卒業の日、田宮は斉藤に乞われてここへやって来た。斉藤はそのときも同じ質問をした。
「さすがに冬には、あんまりここに寄り付かなかった」田宮は素知らぬ顔で答えた。
「夏の方が過ごしにくそうだ」
「ここには不思議と蚊が湧かない。この小屋は風通しが良いんだ。風通しが良すぎて、夏でも夜更けには寒気がする」彼は現に凍えた夜を思い出したかのように、両肩を抱いた。
 斉藤はエンジンを止め、ヘッドライトを落とした。一面、すっと血の気が引くような闇となったが、車内のブラックライトが輝きはじめ、互いの顔がほの白く浮かびあがった。斉藤は手提げから缶を一本とり出し、田宮に勧めた。
「酒は飲んだことがない」田宮は手を振った。
「これはジュースみたいなもんだ」
 田宮はあらためて差し出された缶を受け取り、一口飲んで顔をしかめた。斉藤自身はジンジャエールの缶を開けた。
「案外、真面目だな。人には飲ませておいて」
「バイトを始めたんだ」斉藤は厭味を気にも留めなかった。「今日買った酒とタバコは明日、店に持っていく」彼は繁華街にあるパチスロ店の名を挙げた。「面白いところだよ。面倒見のいい先輩もいる。いずれ紹介するから」
 何でわざわざそんなところに勤めるのか、と言いかけて田宮は止した。斉藤は昔から、金持ち扱いされることをひどく嫌っていたからだ。
 ふたりは夜更けまで話をした。斉藤は、高校のこと、新しいバイト先のことを話した。田宮にはそれらは別世界のことだったが、大人しく聞いていた。彼は、誰かが熱心に何かを語るのを聞くのが嫌いではなかった。それは彼が、かつて極端な人見知りであった斉藤の、数少ない友人となりえた理由でもあったろう。ただ田宮にも、斉藤が、かつての柔弱な性情と決別しようと、対極へ進もうとしていることはわかった。田宮としては彼の態度と、受験の失敗、卒業の日の消沈した様子とを結びつけて考えないわけにもいかなかった。
 斉藤は自分ばかりが喋っていることに気が付いて、お前は最近どうなんだ、と田宮に尋ねた。彼は「何もないよ」と答えた。彼にしても、春以来の、無為に過ぎ去っていく日々について思うところがなかったわけではない。だが、このときの彼には、自分のことを巧妙に語る術も、情熱も持ち合わせてはいなかった。
 斉藤はこの夜以来しばしば、田宮を誘うようになった。ふたりは閉店後の深夜に、車の中で一時間ほどを過ごした。大晦日にさえ、ふたりは車内ラジオの時報に合わせて新年の到来を祝した。だが正月を過ぎて、あらゆる人の心機一転の願いにも手垢のつき始めた頃には、斉藤の足も遠のきはじめた。再会した頃は、それまでの別離の長さが彼らの時間を支えていたが、今やふたりでいても話すこともなくなりつつあったから、それは仕方がなかった。斉藤のせいで田宮は、閉店後の灯の落ちた駐車場でひとり、缶ビールを飲む習慣ができた。酔いは、無為と思える一日の終わりに、理由もなく彼に寄せる疚しさを追い払ってくれた。

(続きは本誌でお楽しみください。)

[→受賞者インタビュー 4年ほど前に見た夢が始まりでした/濱道 拓]