立ち読み:新潮 2020年4月号

半睡/佐々木敦

 眠れ。眠れ。眠れ。眠れ。
さめてはかない假の世に
ねてくらすほどの快楽はない。
さめてはならぬ。さめてはならぬ。

きくこともなく、みることもなく、
人の得意も、失態も空ふく風、
うつりゆくものの哀れさもそがひ
盲目のごとく、眠るべし。
それこそ、『時』の上なきつかひて、
手も、足も、すべて眠りの槽のなか、
大いなる無知、痴れたごとく、
 生死も問はず、四大もなく、

ふせげ、めざめの床のうへ、
眠りの戸口におしよせて、
光りとともにみだれ入る、
世の鬼どもをゆるすまい。

金子光晴「冬眠」

一日目

 長い間、わたしはずいぶんと早寝をしたものだった。
 夜型が多い職業の人間には珍しく、日が変わらないうちにそそくさとベッドに入ってしまう。就寝用の本の続きを読みかけてはみるものの、さあ寝ようと思う間もなく睡魔に襲われ、時には電灯も消さないうちに睡りこけていたりする。思わず知らず自分が寝落ちしてしまっていたことに気づき、その途端に目が覚める。あ、寝てた。ああ、寝よう。ああ、寝なくては。だが、そうなるとどうしてか、もうぜんぜん、睡れないのだった。最後にはなんとか睡りに入ることができるのだが、目が冴えてしまったというわけでもないのに、ぼんやりとした意識のまま、時間だけがゆらゆらと流れてゆく。
 早寝の理由は、このごく短時間の、おおよそ数十秒から数分程度の睡りのあとにやってくる、日によっては数時間にも及ぶ不眠への対策だった。毎夜、いつになったら睡れるのかわからないので、最低限の睡眠時間を確保するために、だんだんと先回りをして早く床に就くようになってしまったのだ。最初に寝落ちする前、今にも睡り込みそうになりながらも、いや、すでに半分睡りながらも、わたしはそのとき読んでいた書物について、あれこれ考えをめぐらせている。だが、それなりに筋道を立てて考えていたはずのことどもは、無意識のうちにあっけなくほどけ出し、わたしの頭を超え出ていって、部屋の中ぜんたいに広がり、わたしのからだを丸ごとやんわりと包み込んで、睡りへと誘い込む。まるでわたしは本と合体して、その一部になってしまったかのようだ。
 だがそれは長くは続かない。わたしはとつぜん、自分が目覚めたことに、目覚めていることに、睡ってなどいないことに気づく。書物との一体感はまだ残っている。ほんの一瞬前まで視界を隠していた、まるで本の見開きの頁のような両瞼が、まだ瞳を覆っているような心持ちがして、いつのまにか電灯が消されていることに気づかない。真っ暗になっている。ほとんど自分のからだそのもののようだった本の感触は、波が引いていったみたいにすっかり消えている。そして、睡れなくなるのだ。
 こんなものを書き出してみようと思い立ったのは、まちがいなく昨夜の対談のせいだ。都内の小洒落た街の駅近くにある大型書店の地下、イベントスペースを兼ねているカフェで、三十人ほどの熱心な聴衆に囲まれた老作家は、わたしを聞き手に大いに語った。彼は終始、意気揚々としていた。二度の大きな手術を必要とする、何百人かに一人の確率で全身麻酔から戻ってこれなくなることもあるという厄介な病いから無事に恢復したあと、それ以前とは異なる仕事へと舵を切ってみせ、わたしを含む長年のファンを驚愕させた彼は、まるで新しい人間に生まれ変わったかのように見えた。
 実際、昨日は彼の誕生日だったのだ。トークの最中にいきなり照明が落とされ、出版社と書店が用意したバースデーケーキが運ばれてくると、老作家は上機嫌で、今日で自分は十七歳になったと、お得意の冗談を飛ばした。まだセヴンティーンだ。青二才と言ってもいい。成人するまでにやりたいことが沢山ある。若輩者ですが今後ともよろしく。聴衆は大受けだった。
 老作家と書いたが、誰もが知るように、彼はほんの数ヶ月前までは老翻訳家であり、老教授だった。大病からどうにか還ってきた彼は、三桁に及ぶ訳本を持つ、長く充実した翻訳家としてのキャリアと、ドイツ文学の重鎮である大学教授の身分を放棄して、もう今後は他人が書いたものを訳すことは一切やらない、大学で教えることも辞める、これからは小説を書く、小説家になるのだと自らのホームページ上のブログで高らかに宣言したのだった。そしてその言葉の通り、退院後わずか三ヶ月あまりで、彼のはじめての小説が書き下ろしで発表された。『フォー・スリープレス・ナイト』というその小説は、その鮮やかな転身の話題性もあって、ちょっとしたベストセラーになった。
 いや、『フォー・スリープレス・ナイト』が売れたのは、そのせいばかりではない。要するにそれは面白かったのだ。一種の青春小説であり、恋愛小説でもあり、遠く過ぎ去った或る時代の空気を濃密に湛えており、サスペンスの要素も、謎解きの要素も入っていて、それでいて文学としての芳香も放っている。つまりそれは、専門のドイツ語のみならず英語やフランス語、スペイン語など多言語の翻訳も手掛け、前衛的、実験的な文学を中軸に置きつつも、SFやミステリ、ファンタジー、児童文学など多彩なジャンルの異色作、問題作を次々と発掘、発見してきては流麗な日本語に移し替え、話題の新人作家の本邦初訳(彼が訳すことによって「話題」になった作家も少なくない)から古典新訳までじつに幅広く活躍してきた人気翻訳家としての彼の経験と知見を総動員したような小説であり、と同時に彼の仕事をよく知っている者にとっても意外性と新鮮味に溢れた仕上がりだったのだ。
 昨日は書店側が企画した連続トークの一環で、日替わりで一週間続くイベントの三日目だった。日本でもっとも権威と効力のある文学賞の発表からさほど時間が経っていないこともあり、小さなカフェは満員だった。老作家――ここからは頭文字を取ってY・Yと呼ぶことにしよう――と会ったのは彼が入院する前の或る映画の試写会以来だったから、二年以上経っていたことになる。歳は三十も離れているが、われわれはよく似ているとY・Yは言った。軽妙洒脱な、だが唐突に意地の悪い鋭さを発揮することも多い喋りに定評がある彼は、持ち前のサービス精神を発揮して終始対談をリードしていた。真意のはかりかねる彼の断定を、肯定するべきなのか、そんなことないですよと謙遜したほうがいいのか、すぐには判断できず、わたしは曖昧に笑うしかなかったが、彼は重ねて、われわれは幾つもの点でとてもよく似ているのだと言って、わたしの顔をじっと見据えた。

(続きは本誌でお楽しみください。)