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表題作特別公開 短編小説 まで三キロ 伊与原新

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 負けがこんでいる。
 そう思ったときには、たいてい手遅れだ。ギャンブルと同じように、人生も。
 ときどき思い出したように虚勢を張るのは悪い癖で、中身はただの小心者だ。
 まだ若かった頃、女の子を食事に誘うときは、必ずその店を下見した。喜んでもらえるか見定めようというわけではない。不測の事態にあたふたして恥をかきたくなかっただけだ。こなれたところを見せつけたいという気持ちもあった。我ながら、小さい男だ。
 人生も下見ができればいいのに、と思う。
 下見さえできたら、こんなことには――。
 いや。どのみち同じかもしれない。下見をしたからといって、デートがうまくいくとは限らなかった。
 そんなわけだから、飛び込みで飲食店に入ることは滅多にない。さっき入ったうなぎ屋も、タクシーの運転手が「ここなら間違いないですよ」と連れてきてくれた。浜松では有名な店だという。二段のうな重が五千円もした。
 それが値段に見合う味だったかは、よくわからない。ふた口目を口に運んだところで、突然吐き気に襲われたからだ。なぜこんなヘビみたいなものが好物だったのかと思うと、それ以上食べられなかった。
 脂汗を浮かべて席を立ち、支払いをしていると、女将が「お口に合いませんでしたか」と訊いてきた。何とも答えられず、無言のまま釣り銭をつかんで出入り口に向かった。後ろ手に閉めた引き戸の向こうで、「うちのうなぎでダメなら、どこの店のもダメかもしれませんね」と嫌味を言うのが聞こえた。
 秋の夜風が湿った体を冷ましていく。
 店があったのは住宅街の真ん中だ。来た道も思い出せないまま、いい加減に歩き続けている。街灯もまばらな通りには、人影はおろか通る車もない。うなぎの甘ったるい匂いがいつまでも鼻腔にまとわりついているようで、なかなか吐き気がおさまらなかった。

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 十五分ほど歩いただろうか。ヘッドライトが角を曲がって現れた。タクシーだ。こちらに近づいてくる。歩みを止めると、それに気づいたかのように、屋根で灯っていたあんどんが消えた。どうやらもう客を取りたくないらしいが、構わず右手を上げる。
 そのまま通り過ぎるかと思っていたら、真横で止まった。個人タクシーだった。やはり表示器は〈回送〉になっている。運転席の窓が下りた。
「すいませんねえ」人の好さそうな運転手が顔をのぞかせた。「今日はもう終わりなんですよ」
「――ああ……」
 気の抜けたような声しか出なかった。そのまま棒立ちになっていると、運転手がこちらに首をのばし、目を瞬かせる。
「大丈夫ですか。具合悪そうですけど」
「――ああ……さっき、うなぎ食って」
「え! あたったんですか?」
 肯定も否定もしないうちに、運転手は独り合点して眉根を寄せた。
「参ったなあ」
 どういうわけか、運転手はハンドルの上に身をかがめ、フロントガラス越しに夜空を見上げる。その方向に、ほとんど完璧な満月が出ていた。
 運転手はこちらに弱々しい笑顔を向けると、小さく息をついた。すぐに後部座席のドアが開く。何も考えずに乗りこんだ。奥までは行かず、助手席のうしろあたりに座る。
「どうします?」運転手が首を回して訊いた。「ご自宅? 救急病院のほうがいいかな」
「――いや……」少し考える時間がほしかった。「とりあえず、駅前」
「ああ、ホテルですか」運転手はまた早合点して、メーターを操作する。「気持ち悪くなったらすぐ言ってくださいね。車止めますから」
 タクシーは静かに走り出した。いい車が多い個人タクシーにしては珍しく、かなり古い型のセダン。乗り心地が悪くないのは、運転が丁寧だからだろう。
「あそこにいらしたってことは、『くろかわ』ですか?」
 うなぎ屋のことを言っているのだろうが、店の名前など覚えていない。
「――さあ……たぶん」
「ここいらじゃ、うなぎといえば『くろかわ』ですからねえ。でも、いい値段でしょ。ずいぶん前に一度だけ行ったことがありますよ。かみさんと息子と、三人で」
 バックミラーに運転手の顔が映っている。五十代か六十代だろうが、うすくなった髪はもう真っ白だ。目尻に刻みこまれたしわと、下がった眉尻のせいで、何をしゃべっていても困ったような笑顔に見える。
「それにしても、うなぎであたるってのも珍しい。ちょっと脂がのりすぎてたのかな。それでお腹がびっくりしただけならいいんですがねえ」

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 気がつけば大通りを走っていた。橋を渡ると、道路の両側にビルが増えてくる。もう十時半を回ったが、行き交う車も多い。浜松駅はたぶんもうすぐそこだ。
「ホテルはどちらになりますかね?」信号待ちで運転手が訊いた。
「――いや……」考えてみれば、この時間、もう新幹線はない。「やっぱり、東名」
「東名? 高速乗るんですか? どちらまで?」
「――富士山。鳴沢村」それ以上詳しいことは知らないまま、来てしまった。
「今からそんなところまで? それはさすがに――」
「いくらかかる」
「いやあ」頭をかきながら言う。「浜松インターから乗って、富士インターで降りて、そこからだいぶありますから――五万じゃきかないでしょうねえ」
 ズボンのポケットから、むき出しのまま突っ込んでいた札を取り出す。一万円札が三枚に、千円札が二枚。その様子をバックミラー越しにうかがっていた運転手が、メーターのボタンを押した。
「とにかく、いったんメーター止めますから。今から富士山ってのは、私も無理なんです。勘弁してください」
 運転手はしばらく直進し、閉店した店を見つけて敷地に車を入れた。ドラッグストアの駐車場だ。店舗はシャッターが下りていて、あたりは暗い。
 ワイシャツの胸ポケットからタバコの箱を取り出すと、ドアが開いた。「すいませんねえ、禁煙車なんで」と運転手が言った。
 車を降り、火をつける。運転手もエンジンをかけたまま外に出てきた。
「どうします? 他の車、呼びますか」
 かぶりを振り、千円札を二枚、運転手に握らせる。「――釣り、いらないから」
 タバコは何の味もしない。ふた口だけ吸って、踏み消した。その拍子に、靴の中敷がはがれてずれた。近所の洋品店で安売りしていた合皮の靴だ。ダメになるのもはやい。
 運転手は札を手にしたまま、細めた目でこちらを見つめている。訝しんでいるようにも、微笑んでいるようにも見えた。
「何でまた、今から富士山に?」運転手が訊いた。「荷物もお持ちじゃないし、遊びに行かれるようにも、お仕事にも見えませんけど」
 白いワイシャツに、スラックス。上着もネクタイもかばんも、財布すらない。怪しまれて当然だ。
「――下見」無意識のうちに、もう一本くわえていた。
「下見って、何のですか。鳴沢村なんて、氷穴と樹海ぐらいしかありませんよ。あ――」
 そこまで言って思い至ったらしい。無理に口角を上げて言う。
「まさかとは思いますが……自殺の下見とか言いませんよね?」
 思わずふっと鼻息がもれた。図星だったが、赤の他人が発した「自殺の下見」という言葉が、今更ながら間抜けに思えたのだ。

「ちょっと、否定してくださいよ」運転手が頬を引きつらせる。「今どき、青木ヶ原樹海で自殺なんて、そんな、ねえ?」
「――だから下見するんだよ」
「……本気ですか」
「もういいよ、行って」唇に引っかかったタバコを吐き捨てた。
「うわあ、参ったなあ……」運転手はうめくように語尾をのばした。「よしましょうよ。よりによって、こんな夜に」
「――こんな夜」つぶやくように繰り返す。
「だって、ほら」運転手は夜空を仰いだ。「ご覧なさいよ、あの見事なお月さま。中秋の名月は昨日でしたが、今夜のほうがぼう――満月に近いんです。月齢15・4」
 まるで、月が見てるでしょ、とでも言いたげな顔をしている。深刻なのか呑気なのかわからない。妙な男だとしか思わなかった。返事をする気も起きず、道路のほうへと歩き出す。
「あ、ちょっと待ってくださいよ」
 背中で運転手が声を張るが、もうどうでもよかった。支払いは済ませている。相手をする義理はない。
「わかりました。こうなったら仕方ありません。青木ヶ原は無理ですけど、近くにいい場所がありますから、そこへ行ってみませんか」
 さすがに足が止まった。だが意味がつかめない。「いい場所――?」
「自殺にいい場所ですよ。お客さんの条件に合うかどうか、下見してください」
 運転手の顔を見つめた。いったい何を言ってるんだ、この男は――。
「お代は結構ですから。ちょうどね、私も同じ方面へ行くつもりだったんです」

 タクシーは片側三車線の国道に入った。運転手はしゃべり続けている。
「はずせない条件は、やっぱりあれですかね。なるべく人知れずひっそり。樹海でと思ってらしたぐらいですもんね。わかる気がします。電車に飛び込むなんてのは、いかがなものかと思いますよ。人さまに迷惑がかかりますからねえ」
 案内標識に〈天竜 浜北〉の文字が見えた。どうやら北に向かっているらしい。
 運転手の言うことを真に受けたわけではない。どこかに泊まったところで、眠れるとは思えなかった。睡眠薬は切らしてしまったし、酒をあおる気にもなれない。安ホテルのベッドで天井のしみを見つめているぐらいなら、車に揺られていたほうがまだましな気がしただけだ。
「だとしたら、今向かってる場所はぴったりだと思うんです。この辺じゃあ、ちょっとした自殺の名所だそうですよ。ダムなんですけどね。天竜川の佐久間ダム。わかります? ほら、飯田線に佐久間って駅が――あ、ところでお客さん、どちらから?」
「――名古屋」頭を使うのが面倒で、本当のことを言った。
「ああ、だったらご存知でしょ。日本第何位だかの大きなダムですからねえ」
「運転手さんは、そこに何の用」
「私? 私はダムなんかに用はありませんよ。もっと手前です。同じ天竜川沿いの、ある場所なんですけどね。先にそっちへ寄らせてもらっていいですか」
「――うん」
「そういえば」と運転手が一瞬だけ首をうしろに回した。「食あたりは、もう大丈夫なんですか?」
「――ああ」食あたりだったわけではないが、吐き気はおさまっている。
「今回はちょっとあれでしたけど、うなぎお好きなんですね。だって――」言葉を探すように一拍空けた。「そんなときに、わざわざ『くろかわ』まで」
 前段は合っているが、後段はちょっと違う。

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 富士山に向かおうと決めたのは、ほんの数時間前のことだ。一昨日あたりから、もういつでも死ねる気がしていた。死に場所について考えていたとき、以前テレビで見た青木ヶ原樹海の風景がふと頭に浮かんだ。すると、まるで強迫観念のように、一度そこへ行ってみなければという思いに駆られた。今になって思えば、運転手の言うとおりだろう。自殺イコール樹海というのは、恥ずかしくなるほどに短絡的だ。
 だが、ここ二週間はそんなことが多い。思いついたことを確かめたり試したりしないでいると、何かやり残したようで、たまらなく不安になるのだ。小心者のまま思考力が低下すると、そうなるのか。あるいはただのノイローゼかもしれない。
 午後八時前、栄の「ビジネスホテルやしろ」を身一つで出てきた。ビジネスホテルと名乗ってはいるが、トイレもシャワールームも共同の安宿だ。長期の宿泊客が多いらしく、一週間分を先払いすると、一泊あたり千九百円になる。タバコと現金だけポケットに突っ込み、携帯は部屋に置いてきた。充電が切れたままだったし、まだ使えるかどうかもわからない。先月末の支払いをしていないのだ。
 計画のようなものは何も持ち合わせておらず、とにかく鳴沢村までたどり着ければいいと思っていた。名古屋駅で新富士駅までの切符を買い、こだま号に乗りこんだ。
 新幹線が浜名湖を横切っていたとき、ああ、うなぎだ、と思った。腹が減っていたわけではない。食欲がわくという感覚など、とうに忘れている。うな重が一番の好物だったことを思い出したのだ。このまま通り過ぎたら、やり残しが一つ増える。浜松駅で停車すると、衝き動かされるようにして新幹線を飛び降りた。すぐさまタクシーに乗り込んで、運転手にすすめられるまま、「くろかわ」へ向かったというわけだ。
 赤信号で止まると、運転手が窓を下ろした。顔を外に出し、うしろの空に目を向ける。
「よく晴れてる」運転手は満足げにつぶやいた。月の様子を確かめていたらしい。
 信号が変わり、車列が動き出す。対向車の数が減り始めていた。道路沿いには、明かりの消えた店舗に混じって、低層のマンションが目立つようになっている。
「知ってました?」
 運転手が前を向いたまま訊いてきた。
「月ってね、いつも地球に同じ面を向けてるんですよ」
「――ああ……」聞いたことがある気もする。
「だから、いつも同じ模様が見えるでしょ。月のウサギ。あの黒っぽい部分は、月の海といいましてね、溶岩が広がった平らな地形なんですよ。月の裏側っていうのは、地球からは見えない。表と裏があるなんて、ちょっと人間ぽいですよね」
 表と裏――。
 祐未ゆみと離婚したことを伝えたとき、父は彼女を評して、「やっぱり裏表のある人間やったか」と言った。いかにも父の言いそうなことだが、当たっていない。祐未は、どこにでもいる、ごく平均的な性質の女だ。適度に善良で、当たり前に打算的。裏の顔などない。彼女にあんな決断をさせてしまったのは、他でもない、この自分だ。
 結婚したのは三十三歳のとき。もう十五年も前になる。祐未はまだ二十三だった。デザイナー見習いとして配属された彼女に先に惚れたのは、こっちだ。少し甘えた声で些細なことでも質問してくる姿が、かわいいと思った。イタリアン、寿司、焼き鳥と、何度か食事に誘い、交際にこぎつけた。専門学校を出たばかりの祐未には、店の選び方も振る舞いも、ずいぶん大人に映ったらしい。下見を繰り返したおかげだ。
 初めて祐未を岐阜の実家に連れて帰ったとき、父はいい顔をしなかった。まだ若すぎるだの、浮ついた感じがするだのと言っていたが、本音は違う。美術系の専門学校を出たというのが気に入らなかったのだ。父にとっては、デザインの勉強など遊びと同じだ。大卒の息子とは釣り合わないと思ったのだろう。
 父が反対するなら、勝手に籍だけ入れてしまうつもりだった。それを嫌がったのは母だ。一人息子にどうしても結婚式を挙げさせるのだといって、父を説得した。結局、名古屋市内のホテルでそれなりに盛大な披露宴をやった。燕尾服の父は、終始難しい顔で向こうの親戚から杯を受けていた。十も年下の若い花嫁は確かに美しく、友人たちにやっかまれた。
 当時勤めていたのは、東海地区で最大手の広告代理店だ。結婚の翌年にはクリエイティブ・ディレクターに昇格した。同期では一番乗り。プレッシャーはあったが、自分の仕切りで広告をつくることができるという喜びのほうが勝っていた。
 給料も上がり、名古屋市内に3LDKの新築マンションを買った。なぜそんなものを買う必要があるのかと、父は当然のように反対した。資金援助を頼むつもりはなかったので、聞く耳は持たなかった。退職金で一括返済ができることを見越して、三十五年ローンを組んだ。
 祐未には、数年は子どもをつくらないでおこうと提案した。一番の理由は、彼女がまだ若かったことだ。子育てで疲弊させるのはかわいそうだと思ったし、しばらく二人だけの生活を満喫したかった。祐未自身も、急ぐ必要はないと考えているようだった。
 祐未は会社を辞めなかったので、世帯収入は十分あった。仕事は忙しかったが、外食や旅行も存分に楽しんだ。二人のためだけに金を使っていた。不安はなかった。公私ともに、すべてが順調に思えた。

「知ってました?」
 また運転手が言った。どこか得意げな、屈託のない声だ。
「大昔はね、月に表も裏もなかったんですよ。月は今より速く自転していましたから、あらゆる面を地球に見せてたんです。とはいえ、見ていた人間はいやしません。ほんとの大昔、たぶん何十億年も前のことですからねえ」

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 何十億年――ぴんとこない話だ。運転手は楽しそうに続ける。
「よく誤解されてるんですがね、今の月が同じ面を地球に向けているのは、自転してないからじゃないんです。月の自転周期が、公転周期と一致してるからなんですよ。月は二十七・三日で地球のまわりを一周しますよね。同じく二十七・三日かけて、月自身も一回転する。とてもゆっくりです。太古の月はもっと速く、くるくる自転していた。それが、地球が及ぼす潮汐力のせいで――正確にいうと潮汐トルクのせいで、自転にブレーキがかかったんです。そのブレーキは、月の自転周期が公転周期と一致するまでかかり続ける。この現象を潮汐ロックといいまして、多くの衛星で一般的に――」
 窓の外に目をやった。ずいぶん暗い。コンビニや飲食店の明かりだけが目立つ。建物の間に広がる暗闇は、田んぼか畑だろう。道が右に大きくカーブする。首を右うしろに回すと、リアウィンドウから月が見えた。
 祐未との暮らしに変化が起きたのは、五回目の結婚記念日だった。
 フランス料理店で食事をした帰り道、祐未が、会社を辞める、子どもがほしい、と言い出したのだ。三十歳に近づき、そろそろと思い始めていたのは間違いない。ただ、本当にほしいのは子どもではなく、会社を辞める口実なのではないかということも、一瞬頭をよぎった。当時の祐未は同僚のことで愚痴をこぼすことが増えていた。人間関係に疲れていたのだと思う。その三カ月後、祐未は退職した。
 実はその頃、自分もまた会社に不満を募らせていた。仕事はうまくいっていた。大きな案件をいくつも任され、誰より会社に貢献しているという自負もあった。それなのに、会社は自分を正しく評価していないと感じていた。有り体にいえば、給与や役職が低すぎると思っていたのだ。今考えれば、正当な不満ではない。業績が伸び悩む中、会社としては精一杯の待遇をしてくれていたと思う。そんな当たり前のことが、当時はわからなかった。
 独立を真剣に考え始めたのは、あるクライアントの社長のひと言がきっかけだった。名古屋でも有数の飲食店グループを率いるその社長は、「君もそろそろ独り立ちしていいんじゃないか。うちの仕事は全部そっちに回すよ」と言ったのだ。酒の席での言葉を、真に受けた。慕ってくれている後輩のアートディレクターを誘って、密かに準備を始めた。四十にして一国一城の主になる。そんな夢に酔っていたとしか言いようがない。

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 それからは多忙を極めた。深夜に帰宅し、そのままベッドに倒れこむ日々。祐未にはもちろんすべてを話してあった。相談したのではない。独立することにしたと告げただけだ。祐未は思ったほど反対しなかったが、子づくりに協力的でないことについてはしょっちゅう不満をもらしていた。
 苦労して準備を進め、半年後にはどうにか開業できるという目処がついたとき、リーマン・ショックが起きた。地方とはいえ、広告業界も大きな打撃を受けるであろうことは、誰にでも予想できる。今はやめておけ、と知人はみな反対した。
 立ち止まるべきだった。だが、その勇気がなかった。びびったと思われたくなかったのだ。不況のときこそ打って出ろ。そんな起業家の言葉を探し出し、自分ならやれると必死で言い聞かせた。現実を直視するのが怖くて、目をつぶっていた。危ぶむ声を聞くのが恐ろしくて、耳をふさいでいた。
 ただの小心者なら、あるいは本当の意味で勇気ある人間なら、そこで引き返していただろう。虚勢を張る小心者という自分の本性が、人生のもっとも大事な局面で出てきてしまったわけだ。
 開業して二年は何とか持ちこたえた。例の飲食店グループをはじめ、前の会社で仕事をしたクライアントが細々こまごまとした案件を回してくれたからだ。だがそれは、ただのご祝儀だった。どのクライアントも、義務は果たしたと言わんばかりに、すっと離れていった。
 慣れない営業活動に奔走した。飛び込みもやった。だが、どこも広告費を削る中、新規顧客など簡単に得られるはずもない。三年目には仕事がほとんどなくなった。自分でいうのも何だが、よくある話だ。開業時に雇った二人の社員には、頭を下げて辞めてもらった。前の会社からついてきてくれた後輩だけが残った。
 経営が悪化するにつれ、祐未との関係も冷え込んでいった。初めのころは、彼女も心配して会社の状況をあれこれ訊いてきた。そのとき素直に弱音でも吐いていればまだよかったのかもしれない。不機嫌な顔で言葉少なに応じることしかしなかった。それに嫌気がさしたか、あきらめたのか。そのうち何も訊かれなくなった。
 ストレスがたまり、結婚を機にやめていたタバコをまた吸い始めた。外回りに出たはずが、気づけばパチンコ台の前に座っていることが増えた。仕事もないのに、帰りは遅い。毎晩立ち飲み屋で時間をつぶしていたからだ。それでも祐未は何も言わなかった。思えば、そのころにはもう見切りをつけられていたのだろう。いつしか、「子どもはどうするつもり?」となじられることもなくなっていた。
 四年目を待たずして、会社をたたんだ。最後の夜、運命をともにした後輩と二人、がらんとした事務所で缶ビールを飲んだ。後輩は泣いていた。幸いだったのは、彼の再就職がすんなり決まったことだ。それだけは本当によかったと、今も思っている。
 祐未が離婚届を食卓に置いたのは、その三カ月後だ。すました顔で、「わたしのほうは、まだいろいろやり直せる。子どもだって産める。何も要らないから、今すぐ判を押してほしい」と言った。覚悟していたので、驚きはしなかった。ただ、「わたしのほうは」という言葉だけが、頭蓋の内側で重苦しく反響していた。役所に届を出したのは、十回目の結婚記念日を迎える二日前のことだった。
 そのわずか半年後、祐未が実家のある豊橋で再婚するらしい、と風の噂で聞いた。もしかしたら、離婚する前からその相手と何かあったのかもしれない。まあ、今となってはどうでもいいことだが。
 とにかく、そんな風にしてすべてを失った。残ったのは、一人で住むには広すぎるローン付きのマンションと、独立してつくった借金。負債は合わせて七千万円を超えていた。
 広告業界の知り合いに頭を下げ、再就職の世話を頼んではみた。代理店、PR会社、企業の宣伝部。どの会社でも、独立に失敗した四十過ぎの自称クリエイティブ・ディレクターなど、扱いに困るだけと思われたのだろう。拾ってくれるところはなかった。
 選り好みができる立場ではない。何でもいいからはやく仕事を見つけなくては。頭ではわかっていた。だが、どうしても心がついてこない。職安に通ったりしたら、今の自分の価値が丸裸にされる。それは耐え難かった。だから毎朝、日課のように開店前のパチンコ店に並んだ。
 そんな貯金を取りくずすだけの生活が長続きするわけもない。破綻は一年も経たないうちに訪れた。

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表題作全文試し読み『八月の銀の雪』伊与原新 特設サイト