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短編集『月まで三キロ』 星六花 刊行前特別公開

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【公開期間】2018年11月20日~2019年1月31日(23時59分)まで

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「降水確率0パーセントというのは、絶対に雨が降らないという意味ではないんですよ」
 四人での食事会もそろそろお開きという段になって、奥平おくひらという人が急にしゃべり始めた。ほとんどの時間静かに微笑んでいただけの、向かって左の男性だ。
「どういうことですか?」となりの美彩みさちゃんが、きれいに描いた眉を器用に上げた。親指と人差し指で輪っかを作り、小首をかしげる。「だって、ゼロですよ?」
 女のわたしから見ても、この後輩はすることがいちいちかわいらしい。年が明けると三十になるそうだが、メイクと服装を少し変えれば女子大生だといっても通るだろう。ただ、その言動が同性の反感を買う原因になりはしないかと、老婆心ながら心配になることはある。
「降水確率は10パーセント刻みになってるでしょう?」
 奥平さんは、わたしと美彩ちゃんを律儀に均等に見て言った。色白で線も細いのに、声だけは低く響く。
「つまり、四捨五入した値なんです。5パーセント未満の場合はすべて0パーセントとして発表してるんですよ。しかも、1ミリ以上の雨が降る確率ですからね。通り雨がぱらついたぐらいでは、降ったうちに入らないんです」
「へえ、そうなんですね」美彩ちゃんがすぐ横の窓に目をやった。白いスプレーで描かれたサンタクロースの頭に、雨滴がつたい落ちる。「じゃあ、こんなことになっても別におかしくはないんだ」
 この話題になったのは、二階にあるレストランの窓を、ぽつりぽつりと雨粒が打ち始めたからだ。ほんの小雨だが、今朝見た天気予報に傘マークはなかった。美彩ちゃんが言うには、午後の降水確率は0パーセントだったらしい。
「おかしくはなくても、納得できないよねえ」右側の男性、岸本さんが赤い顔を突き出して美彩ちゃんに同意を求める。「だって、ゼロはゼロじゃん。ナッスィングでしょ。ちょびっと降るかも、なんて意味にはとれないすよ」
「そうだそうだ! あたし傘なんか持ってないぞ。気象庁、責任とれー!」
 おどけて拳を突き上げる美彩ちゃんに、奥平さんが一重まぶたの目を細めた。「弊庁の説明不足で、申し訳ありません」と慇懃いんぎんに頭を下げる。
 四人でワインを三本空けたが、大半は岸本さんと美彩ちゃんが飲んだ。奥平さんはたぶん赤と白を一杯ずつ、わたしは白を一杯だけ。飲めないわけではないのだけれど、酔って自分が自分でなくなるような感覚が、昔からどうしても好きになれない。
 わたしはもう少し話をふくらまそうと、言ってみる。

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「でも、四捨五入するってことは、実際はずいぶん詳しい確率が出てるんですね」
 天気予報にそこまで興味はなかったが、初めて奥平さんがテーブルの主役になったのだ。この人の声や話し方をもう少し聞いてみたいと思った。
 奥平さんは水の入ったグラスを両手で包み、「そうですね」とうなずいた。白くて長い指に反射的に目がいくが、当然、指輪はない。
「気象庁では、過去の気圧配置や観測値をデータベース化していましてね。その中から、現在の状況と似たようなパターンをコンピューターが探し出して、降水があった割合を算出するわけです。ですから、どこまで意味があるかは別として、統計的な数値としては細かいところまで出てくるんですよ」
 奥平さんは言葉を区切りながら言った。なるべく簡潔に、かつ正確に伝えたいという気持ちが伝わってくるような話し方だった。

「へえ、さすがは気象――」予報士と言いかけて、咄嗟に言い換える。「のプロですね」
「俺なんかさあ」岸本さんが大声を響かせた。ワインのせいでボリュームがおかしくなっているらしい。「気象予報士が天気図見ながら、『八割方降りそうだな。よし、降水確率80パーセント!』とかって決めてると思ってましたよ」
 そう言って岸本さんは一人笑う。男性陣二人は大学のバドミントンサークルで一緒だったそうだが、岸本さんは先輩の奥平さんを立てるわけでもなく、食事会の間じゅう一人でしゃべりまくっていた。
 わたしは時間でも確かめるようなふりをして、膝の上でスマホのケースを開いた。はさんでおいた二人の名刺のうち、奥平さんのものを確認する。
 〈気象庁 東京管区気象台 気象防災部 技術課 技術専門官 奥平 潤〉
 やはり、長い肩書きに「気象予報士」の文字はない。乾杯の前にそれぞれ自己紹介したときも、その単語は出なかった。気象庁でそれなりの役職についているのだから、気象予報士の資格ぐらいは当然持っているような気もするが、どうなのだろう。

 美彩ちゃんと岸本さんを乗せたタクシーを見送っていると、奥平さんが言った。
「大丈夫ですよ」
「え――?」
「そんな心配そうな顔をなさらなくても。岸本は、女性に対してだけは騎士道精神を発揮するタイプの男ですから」
「いえ、あの……」はた目にもわかるほどだったのだろうかとあせりながら、言い繕う。「二人とも、結構酔ってたみたいだから……」
 二人が一台のタクシーに乗り合わせて帰っていったのは、単に帰る方向が同じだからだ。美彩ちゃんはああ見えて芯はしっかりしているし、何より、立派な大人だ。わたしが保護者面で心配してやる必要はない。
 ただ――さっき後部座席に乗り込もうとしてよろけた美彩ちゃんの腕を、車内から岸本さんがつかんで支えた。その光景が記憶を刺激して、思わず顔が強張ってしまったのだ。
 わたしの家もここから遠くないが、夜一人でタクシーに乗ることはない。奥平さんも電車だというので、恵比寿駅まで一緒に歩くことになった。

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 傘が要るほどの雨粒はもう落ちてきていない。わずかに舞う霧雨が車のヘッドライトに光る程度だ。隠れ家風の飲食店が不意に現れる細い通りを、冷たい風が吹き抜ける。
「急に冷えてきましたね」わたしはストールを巻き直して言った。「昼間はコートが要らないぐらいだったのに」
「北よりの風が吹き始めたようですね」奥平さんもダッフルコートのトグルを首もとまで留める。「今の通り雨も、そのせいかもしれない。海からの風と北風とがぶつかって、局所的に雲ができたんでしょう」
「奥平さんは、気象予報士なんですか?」
「まあ、一応。資格は学生時代にとりました。でも、職場で予報を出してるわけじゃないですよ。僕はまだ予報官じゃありませんから」
 奥平さんは気象台での仕事について話してくれた。技術課という部署の業務は、気象観測機器――アメダスや気象レーダーなど――の維持管理がメインになるそうだ。だからといって、このままエンジニアとしてキャリアを積んでいくというわけでもないらしい。「技術専門官」という今の職階の上に「予報官」があり、彼もそれを目指しているという。
 面白いと思ったのは、気象台に勤める理系職員の大半が気象予報士の資格を持っていないということだ。奥平さんによれば、あれはあくまで民間向けの制度であり、気象庁への入庁や予報官への昇格とは何の関係もないらしい。
「素晴らしいですね」わたしはお世辞抜きに言った。「学生で気象予報士に合格したってことは、お天気の仕事をするのが昔からの夢だったってことですよね。それを着々と実現させてるなんて、ほんとにすごいです。うらやましい」
「いや、僕なんてただの気象オタクですよ」
「気象にもオタクがいるんですか」
「いますよ。雲オタクとか天気図オタクとか」
「天気図オタクって……天気図を見るのが好きってことですか」
「いえ、自分で描くんです。毎日ラジオで気象通報を聞いて」
「気象通報?」

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「知らないですよね、そんなの」奥平さんは可笑しそうに顔をほころばせる。「NHKラジオ第2で一日一回、各地の気象要素が読み上げられるんです。『石垣島では、南東の風、風力3、天気は晴れで、気圧は1015ヘクトパスカル、気温は23度でした。那覇では――』みたいな感じで」
「それを聞くだけで天気図が描けるんですか」
「ちょっと勉強して練習すればね。専用の用紙も売ってますし。僕も小中学生のころはよく描いてました。マンションのベランダにラジオを持ち出して」
「なんでベランダに?」
「五階の狭いベランダをね」奥平さんは照れくさそうに目を伏せた。「僕だけの気象台にしてたんです。小さなテーブルと椅子を置いて。お小遣いを貯めて、安い気圧計と風速計も買いました」
「かわいい話かと思ったら、結構本格的ですね」
「毎日ノートに記録をとって、天気図を描いて、自分なりの予報を出すんです。両親が、『潤、明日の天気は?』って毎晩訊いてくれるので、子どもなりに真剣ですよ」
「いいご両親」
「とにかく、ベランダで空を眺めている時間は長かったです。珍しい雲を見つけたら、図鑑で調べてスケッチしたりしてね」
「奥平さんは、雲オタクでもあるんですか」
「まあ、そうですね。今でも、いい雲が出ていたらすぐ写真が撮れるように、カメラは常に持ち歩いてます」奥平さんは斜めがけにしたナイロンバッグを軽く叩いた。
「あ、そうだ」わたしは立ち止まってスマホを取り出し、待ち受け画面にしている写真を見せた。「これって、珍しい雲なんですか? 何か名前が付いてたはずなんですけど――」
 青空に漂う薄い雲が、虹色に光っている。虹がかかっているわけではなく、雲のふちの部分だけが七色に輝いているのだ。
「おお、見事な彩雲ですね」奥平さんが感心したように言った。
「彩雲! そうそう、そんな名前でした」
「太陽光が雲の粒を回り込んで進むとき――回折というんですが――波長によって進む角度が少しずつ変わるんです。だから、虹みたいに色が分かれて見える」
「へえ――って、ほんとはよくわかってないんですけど」
「理屈なんかどうでもいいですよ。この写真、ご自分で撮られたんですか?」
「いえいえ、ネットで拾ったんです。きれいだなーと思って。昔から、空とか雲の写真が大好きで」
 最後のひと言は、勢いで盛ってしまった。彩雲の写真も、最近カメラに凝りだした知り合いがSNSにあげていたものを拝借しただけ。ちょっと珍しい風景写真なら、何でもよかった。

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「気象オタクの素質がありますよ、富田さんも」
 目尻にしわを寄せて言う奥平さんを見て、不思議なほど嬉しくなった。
 気がつけば恵比寿駅西口に着いていた。ロータリーを囲む街路樹やオブジェが色とりどりのイルミネーションをまとい、華やいでいる。駅ビルの入り口に立つ大きなクリスマスツリーの下で、どちらからともなく足を止めた。
「わたし、JRなので」駅ビルの入り口を指差して言う。
「僕は地下鉄です。日比谷線」
 奥平さんは空を見渡すと、バッグから黒い折りたたみ傘を取り出した。持ち手のほうをわたしに差し出しながら、微笑みかけてくる。
「これ、念のため。またパラっとくるかもしれないし」
「そんな、いいです、いいです。奥平さんが濡れちゃうじゃないですか」
「僕は大丈夫。もし降ったとしても、駅からうちまで走れば一分ですから」
「でも……」の続きを言い淀む。借りても返せない、とは言いたくなかった。「どうやって……」とだけ、小さな声で絞り出す。
「この傘は、しばらく持っていてくださって結構ですから」奥平さんは、半ば押し付けるように傘を握らせてくる。「そうだな……クリスマスぐらいまで」
「クリスマス?」
「ええ――」奥平さんは腕時計に目を落とし、眉を持ち上げる。「やばい、もう終電だ。なんせ、隅田川の向こうまで帰らないといけないんで」
「あ、早く行ってください」慌てて言った。
「すみません。遅いので、お気をつけて」地下への階段に向かおうとした奥平さんが、振り返った。「富田さん、ツイッターやってますか?」
「一応、アカウントはありますけど――」もう何年も書き込んでいない。
「よかったら、僕のツイッターも見てみてください。たまに雲の写真とかアップしてますから。本名でやってるんで、検索していただければ。じゃあ、また」
 奥平さんは早口で言いながら、地下へと消えていく。わたしは折りたたみ傘を胸に抱き、「はい、また――」と会釈を返すことしかできなかった。

 ふわふわした気持ちでいられたのは、渋谷で井の頭線に乗り換えるまでだった。
 金曜の夜だ。混み合う車内を座席のほうまで進み、すき間を見つけてつり革につかまった。電車が動き出した途端、現実に引き戻される。自分の姿が窓ガラスに映ったからだ。
 来年四十になる、やせっぽちの女。かわいい顔もしていないし、若々しくもない。服装にはそれなりに気を使っているが、オシャレとはとてもいえない。ダサい、オバさんくさい、と同僚から思われないように頑張っているだけだ。

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 奥平さんは三十七だと聞いている。二つ年下。公務員で、感じもいい。そんな男性が四十路目前の女をわざわざ結婚相手に選ぶ理由はない。
 でも――。だったらなぜいそいそ食事会に出向いたの? 窓の中の自分に訊き返されて、心の中で自嘲する。
 今回の話を持ってきてくれたのは、大学時代からの友人だ。彼女の旦那さんの会社の部下が、岸本さん。岸本さんが奥平さんを、わたしが美彩ちゃんを誘って、二対二の食事会をすることになったわけだ。
 その友人からは「間違っても若い子なんか連れてっちゃダメだよ」と釘をさされていた。同年代の未婚の友だちがいないわけではないが、男性陣はどちらもわたしより年下なのだ。彼らより若い女の子を連れていかないと、釣り合いがとれないと思った。独身で彼氏もいない年下の知り合いとなると、同じ部署の美彩ちゃんしかいなかった。
 とはいえ、美彩ちゃんを誘ったのは、彼女のためでも、男性たちのためでもない。自分の引き立て役を横に座らせるような、イタい女と思われたくなかった。意固地なのか、見栄っ張りなのか。どちらにしても、自分本位。嫌な女になり果ててしまったと、つくづく思う。
 例えば今だってそう。目の前に座っている学生風の女の子が、一人スマホに文字を打ち込みながら口もとを緩めている。二十歳の頃のわたしは、携帯を見て微笑んでいる女の子を眺めるのが好きだった。彼氏とメールかなと想像したりして、こっちまで幸せな気分になったものだ。それが今はどうだ。ラインで友だちと誰かの悪口でも言い合っているのだろうと思ってしまう。いつの間にこんなことになってしまったのか――。
 コートのポケットでスマホが震えた。美彩ちゃんからのラインだ。
 〈今日はありがとうございました! さっき家に着きました〉
 〈こちらこそ、来てくれてありがとう。どうだった?〉と返信する。
 〈すごく楽しかったです! 二人ともいい人でしたね!〉
 〈そうだね。タバコも吸わないし〉
 〈あー、千里さんにはそれ超重要ですよね笑〉
 わたしのタバコ嫌いは部内でも有名らしいが、もっというと、それは「嫌い」などというレベルではない。美彩ちゃんのメッセージが続く。
 〈岸本さんとはライン交換しましたけど、正直、二人で会うかどうかは微妙です笑〉
 〈微妙なんだ笑〉
 〈千里さんのほうは?〉
 曖昧な訊き方だが、奥平さんのことを言っているのだろう。奥平さんはわたし向けの候補だから、評価もアプローチもしてはいけない――美彩ちゃんはそう思っているに違いない。
 迷ったが、事実だけを伝えることにした。美彩ちゃんの反応を見てみたかった。
 〈気象台のお仕事の話を聞きながら帰ったよ。別れ際に、折りたたみ傘貸してくれた〉
 〈え!? それっていい感じじゃないですか!? 傘返すときに、また会うってことですよね?〉
 〈どうだろ。そうなるのかな〉素っ気ない言葉で返しつつ、こそばゆくなるような嬉しさを噛み殺す。
 〈そんな他人事みたいに笑 千里さんは乗り気じゃないんですか?〉
 〈そういうわけじゃないけど……〉と打って、続きが書けなくなる。調子に乗っていると思われるのは嫌だった。〈もう遅いから、続きはまた会社でね〉
 〈えー、もっと聞きたい笑 でも、今日は参加させていただいてよかったです! 色んな人に会ってみないと、何も始まらないですもんね! 後悔したくないですから〉

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 後悔したくない――美彩ちゃんの口ぐせだ。確かに彼女は積極的で、毎週のように婚活パーティに通い、婚活アプリで知り合った男性と仕事帰りに会ったりもしている。身元も確かでないような人と二人きりで会うなんて、わたしにはとても考えられない。
 その熱意を一割でいいから仕事に向ければいいのに、とは思う。さっさと寿退社したいです、と周囲に宣伝しているような働きぶりだが、それで社会人としての後悔はないのだろうか――。
 いや――。それこそ余計なお世話だ。こんなわたしに、えらそうなことをいう資格はない。
 仕事は頑張ってきたつもりだ。そこそこ名の通った都内の私大は出たものの、時は就職氷河期まっただ中。涙に暮れた就活の末、今の中堅文房具メーカーに拾ってもらった。以来十七年間、総合職として、営業、経理、広報、商品企画とまわり、去年から人事部にいる。主任という肩書きはもらっているが、部下がいるわけではない。
 念願だった商品企画部をたった二年で出されたのは、少なからずショックだった。自分が手がけたと胸を張って言える商品は、結局一つも出せずじまい。急場しのぎに打たれる手駒よろしく、人手の足りない今の部署に動かされた。
 どこに配置されても及第点の仕事をするが、手放せない人材と思われるには至らない。上からの評価はそんなものとわかっていても、与えられた場所で精いっぱいやってきた。そこにはささやかな自負こそあれ、後悔しているようなことはない。
 一方、プライベートに関しては正反対だ。幸せになるために必要なことを何一つせず、二十代後半から三十代前半にかけての一番大事な時期を無駄にしてしまった。出会いの場のようなところには誘われても近づかなかったし、職場の独身男性たちにも淡泊すぎるほどの態度をとり続けた。わたしのような目立たない女にとって、対象外になるのはたやすい。
 そして、気づけば三十代も終わり。こんなはずじゃなかったのに――と今になってため息ばかりついている。「どうせ」と「だって」と「でも」を堂々巡りのように繰り返しながら。
 どうせ、わたしなんて。今さらがつがつ婚活したところで、どうせ。
 こんなことになってしまったのは、わたしだけのせいじゃない。だって、あんなことがあったんだから。仕事を頑張っているうちに、時間が経ってしまっていたんだから。
 でも、心のどこかでまだ期待している。こんなわたしにも合う人を、誰かがわたしの前に連れてきてくれるんじゃないか、と。贅沢をいうつもりはないのだし、そのうちいい出会いがあるんじゃないか、と。期待しているといえば聞こえはいいが、要するに、この期に及んでまだ他力本願。
 そういえば、かつてわたしは「りぼん」の熱心な読者だった。小学生のときに読み始め、まわりがその手の雑誌をとっくに卒業した高校生になっても、こっそり近所の本屋で買っていたほどだ。なぜ突然こんなことを思い出したのか、理由はわかっている。自分の本質があの頃から成長していないことに気づいたからだ。白馬の王子などいないと、とうの昔に思い知ったというのに――。
 再び下降し始めた気分を紛らわせようと、ニュースアプリを立ち上げた。ヘッドラインが並ぶ画面をスクロールしていた指が、思わず止まる。
 〈40代の未婚女性が結婚できる確率は、わずか1パーセント!?〉
 見出しの中にうまく紛れ込ませてあるが、どうせ中身はブライダル産業か婚活本の広告だろう。開いてみる気にもならない。うじうじと結婚に関することばかり検索しているから、こんなものが表示されるのだ。ささくれだった気持ちのまま、アプリを閉じる。
 こういう数字は、結婚を意識しているとよく目にするものだ。2・7パーセントだの、4・1パーセントだの、ネットを漁ればいろいろ出てくる。全部デタラメだという話もあって、本当のところはよくわからない。実感としては、大きくはずれていない気もする。
 いずれにしても。これが降水確率なら、全部四捨五入されて、0パーセントということになってしまうのだ。
 深く息をついた。スマホをバッグにしまおうとして、さらりとした傘の生地に手が触れる。また鼓動がはやくなる。
 要るとは思えないのに、彼はわざわざこれを貸してくれた。しかも、「クリスマスぐらいまで」という言葉を添えて。期待してはいけないと思いつつ、そこに甘い響きを感じ取ろうとしている自分がいる。0パーセントの確率を、せめて10パーセントにできる可能性は――。
 こんなわずかな間にも、気持ちが乱高下する。あまりに久しぶりのことで、頭も心もついていかない。
 もういいから、少しクールダウンして――窓ガラスに映る自分に、そう言い聞かせた。

「東京の雪予報って、よくはずれると思いませんか?」
 奥平さんが言った。話すときの癖なのだろう。またカフェラテのカップを両手で包んでいる。
「確かにそんな気がしますね。積もると言っていたのに、実際はちょっとみぞれが降っただけとか」
「逆もありますよ。積雪の可能性なしと予報したのに、都心で十センチ近く積もるような大雪になったりね」
 このスタバは官庁街に近いせいか、午後一時過ぎの店内にはちらほら空席が見える。奥平さんはたまたま午後休を取っていたそうで、今日はもう職場に戻らなくていいらしい。
 仕事で気象庁の近くまで行くので、傘をお返ししたい――奥平さんにそう伝えたのは、昨夜のこと。大手町の取引先に用があったのは本当だが、半分は口実だ。誰が行ってもいいお使い程度の役目を、すすんで引き受けた。
 食事会からちょうど一週間。奥平さんには会いたかった。でも食事に誘うなどとてもできない。カフェで落ち合い、借りていたものを返す。それぐらいがちょうどいいと思った。

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「予報がはずれるのには理由がありましてね」音楽と話し声でざわめく店内でも、奥平さんの低い声はよく通った。「関東の平野部にまとまった雪が降るのは、たいていの場合、南岸低気圧が原因なんです。日本列島の南側を通過する低気圧のことですね。寒気があるところに南岸低気圧が近づくと、太平洋側に雪をもたらすことがあるんですが、問題はそのコースです」
 奥平さんはテーブルのスマホを横向きに置き直すと、その手前側を人差し指で左から右になぞっていく。スマホを日本列島に、指先を低気圧に見立てているらしい。
「低気圧が日本列島から少し離れたところを通った場合、雪になる可能性が高くなります。陸地に近すぎると、雨になる。そして、離れすぎると、降水自体が起きなくなるんです。どのコースをとるか正確に見極めるのが、まず難しい」
「なるほど、微妙なところなんですね」
「さらには、関東地方をおおう寒気の状態、とくに、地表付近の気温がとても重要になってきます。精度のいい予測ができないと、雪になるか雨になるかの判断が狂ってしまうんですが、そこもまた難しい」
「それでも予報を出さなきゃならないなんて、胃が痛くなりそう」
「雪予報をはずすと、とくに叩かれますしね」奥平さんは微笑んだ。「東京では、積もるか積もらないかが大問題ですから」
「ほんとにそうですよね。ちょっとの雪で、電車も道路も大混乱」
 奥平さんはスマホを手に取ると、ツイッターを開いた。手早く操作して、わたしのほうに向ける。もう何度も目にした画面。奥平さん自身が投稿したものだ。
「この『首都圏雪結晶プロジェクト』は、雪予報の精度を上げるための試みなんです。我々としてはまず、雪を降らせるような雲の物理特性をもっと詳しく知りたい。そのためには雲の内部を直接観測する必要があるんですが、そういうデータはなかなか集まりません。そこで、雲から地表に落ちてくる雪結晶の形に目をつけたわけです」
「素敵ですよね。『雪は天から送られた手紙である』――でしたっけ」

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 一連のツイートは繰り返し読んだので、すっかり覚えてしまった。中谷宇吉郎という有名な雪の研究者の言葉だそうだ。
 わたし自身初めて知ったことだが、雪の結晶にはいろんな形があるという。普通の人々が思い浮かべるのは、六角形の樹枝状結晶ぐらいだろう。デザインのモチーフによく使われる、あれだ。実際はその他にも、針状、板状、角柱状など、さまざまなタイプがあって、どれに成長するかは気温や水蒸気の量によって決まる。つまり、降ってきた雪結晶の形を見れば、大気の状態を読み解くことができる、ということらしい。
「中谷先生は、一般向けの科学啓蒙書とかエッセイでも有名だったんです。生きてらしたら、きっと喜んでくださったと思いますよ。天からの手紙をみんなで集めようって話ですから」
 そう。この「首都圏雪結晶プロジェクト」は、研究者だけのものではない。ツイッターを利用した市民参加型のプロジェクトなのだ。発案者は気象研究所というところの研究官。奥平さんをはじめ数人の気象庁職員が共同研究者として動いている。
 概要はこうだ。まず、奥平さんたちがツイッターでプロジェクトの目的と参加方法を拡散し、関東在住の市民に協力を呼びかける。参加希望者は、実際に雪が降った際、雪結晶の写真をスマホなどで接写。画像に撮影時刻と場所を明記した上で、〈#首都圏雪結晶〉のハッシュタグをつけてツイッターに投稿する。奥平さんら研究者チームがそれを集計し、データ解析を試みて、雪雲の実像に迫ろうというわけだ。
 わたしがこのことを知ったのは、あの食事会の夜。悶々とした気持ちでベッドにもぐり込み、布団を頭までかぶって奥平さんのツイッターを見てみた。直近のツイートが、このプロジェクトに関するものだった。何の予備知識もないわたしでも、投稿をさかのぼって読んでいくうちに、彼らのやろうとしていることが理解できるようになった。
 その翌日、わたしはツイッターを通じて奥平さんにメッセージを送った。プロジェクトについて、どうでもいいような質問をしてみたのだ。彼からはすぐに丁寧な返信があり、そこからメッセージのやり取りが始まった。以来わたしは、このプロジェクトに興味津々なふりを続けている。
「メッセージにも書きましたけど――」精いっぱい屈託のない声音をつくって言う。「わたしも絶対参加させてもらいますから。楽しみにしてるんです」
「きっとそう言っていただけると思ってました」奥平さんが目じりにしわを寄せた。
「気象オタクの素質があるからですか」
 奥平さんは声をたてて笑う。「ようこそ、こちらの世界へ、ってところですね。もう戻れませんよ」
「そう言われると、何だか怖い」わたしも笑い返す。「でも、こんなに雪が待ち遠しいなんて、子どものとき以来かも」
 わたしは自分のスマホでブラウザを立ち上げ、ブックマークしてあったページを開く。奥平さんがツイッターで紹介していたサイトだ。タイプ分けされた雪結晶の一覧で、その数なんと四十種類。
 針、角錐、角柱、角板、扇型、砲弾型、つづみ型――本当にいろんな形がある。正六角形をなすように六つの枝がのびた結晶が、「六花」だ。有名な樹枝状六花の他にも、広幅六花、シダ状六花など、いくつか種類がある。
「わたし、これが好きなんです」六花のうちの一つを指差して、奥平さんに見せる。
「ああ、星六花」
 六本の針が等方にのびているだけの、一番シンプルな六花だ。「星六花」という名前も、素敵だと思った。
「わかる気がします」奥平さんは続けた。「何ていうか……富田さんっぽい」
「え――」ドキッとした。「それって、わたしが地味ってことですか」
「いや、違います違います」奥平さんが、見ていて可笑しくなるほどうろたえる。「そういう意味じゃなくて……」
「冗談ですよ」と笑って返しながら、心が喜びに満たされるのを感じていた。実はわたしも、星六花に自分を重ねていたからだ。

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