新潮社

 page 1星六花〔 page 2/2 〕

「見られますかね、星六花」わたしはつぶやくように言った。
「可能性は十分あると思いますよ。去年十二月の降雪でも、樹枝状以外の六花が見られましたしね。他には、針状、柱状、十二花や枝付き角板なんかも投稿されてきました。一般的には、水蒸気の量が多ければ多いほど、樹枝状六花などの複雑な結晶ができやすくなるんです。水蒸気量が少ないと、単純な角柱や角板のままで――」
 奥平さんは熱心に語りかけてくるが、その声は心地よい音としてしか届かない。
 目の前のこの人は、恋人どころか、友人とさえ呼べないかもしれない。それでも、ただただ幸せな気分だった。星六花もプロジェクトも、本当はどうだっていい。とにかくこの冬、雪がたくさん降ってくれればいい。雪が降る限り、この暖かく穏やかな時間が続く――ぼんやりとそんな思いにひたっていた。
「降るとしたら、いつ頃になるでしょうね」わたしは言った。
「数値予報によると、どうやら来週中頃から後半にかけて上空に強い寒気が南下してきそうです。そこに南岸低気圧が発生すれば、もしかしたら――というところでしょうかね」
「来週後半ということは、ちょうどクリスマスですね。ホワイトクリスマスになるかもしれないってことですか」
「可能性はあると思います。今日これから、そのあたりに詳しい予報官に会うので、最新情報を仕入れておきますよ」
「あれ? まだお仕事ですか? 半休をとったんじゃ――」
「つくばの気象研究所でプロジェクトの打ち合わせがあるんです。僕の場合、これは本来の業務じゃないので、休みをとって行かなきゃいけないんですよ」奥平さんは腕時計に目をやり、「そろそろですね」と言い添える。
「あ、だったらもう出ましょう。わたしも会社に戻らなきゃ。その前に、肝心なもの――」わたしはバッグから折りたたみ傘を取り出し、両手で差し出した。「これ、本当にありがとうございました」
 結局使うことはなかったが、きれいにたたみ直してある。
 だが奥平さんは、それに手をのばすことなく、かぶりを振った。
「だから、まだ持っていてください。雪が降ったときのために」
「え――どういうことですか?」
「雪結晶の写真を撮るのに、黒とか紺の傘が一番いいんですよ。降ってきたら傘を差して、そこに付着した結晶をそのまま接写すればいいだけですから。傘の生地には撥水性があるので、結晶が崩れにくいですしね」
「ああ――」のどがつまった。
「きっと、黒い傘なんてお持ちじゃないだろうと思って」
「――ええ、そうですね……」

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 さも納得したようにうなずきながら、顔が火照るのを感じていた。
 そういうことだったのか――。あの夜、この人が傘を強引にわたしに握らせた理由も、クリスマスぐらいまでという言葉の意味も、やっとわかった。そんなことにわたしは、10パーセントもの期待をこめていたのだ。
 わたしはそそくさと傘を引っ込めた。考えてみれば、当たり前のこと。そんな甘い展開が、あるわけない。わたしは、本当にバカだ――。
 恥ずかしくて奥平さんの顔を見られないまま、店を出た。

 右手に皇居のお濠を見ながら、並んで歩く。
 空はよく晴れている。奥平さんが今日の天気について話してくれているのに、わたしはうつむき加減であいづちを打つだけ。北風が冷たいらしいのだが、肌が麻痺したように何も感じない。さっきまでの幸せな気分が嘘のようだ。足腰にうまく力が入らず、歩きづらかった。
 話が途切れた。こちらから何も話しかけないことがさすがに気まずくなって、話題を探す。
 ちょうど、向こうから四、五人の女の子たちが歩いてきた。バイオリンや管楽器のケースを肩にかけている。大学のオーケストラ部員か何かだろう。みんな話に夢中で、時おり弾けるような笑い声を上げている。
「――楽しそう」とりあえず口にしたら、棒読みになった。
「いいですね、ほんとに」奥平さんが軽く応じる。
 思わずその顔を見上げた。彼はどこか不思議そうに見つめ返してくる。
「やっぱり、若い子がいいですか」動揺したせいで、そんな品のない台詞しか思いつけなかった。からかうような表情だけは作ったつもりだが、どう見えたかはわからない。
「いや、待ってください」奥平さんは困ったように笑う。「僕だって、富田さんと同じ意味で言ったんですよ」
「ふふ、わかってます」無理に口角を上げた。
 女子学生たちがにぎやかに通り過ぎるのを待って、奥平さんが「でも――」と続ける。
「僕も、オヤジになったなって思いますよ。若いっていうだけで、輝いて見えちゃいます。顔がきれいとかかわいいとか、そういうこととは関係なく、どんな子にもある種の美しさを感じることができるようになったっていうか。生物として、そうできているんだなって――」そこで、何かに気づいたように慌てて付け加える。「あ、この話、男女を問わずですよ」
「ええ、よくわかりますよ、オバさんにも」

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 奥平さんの言葉だけでなく、自分の言葉までもが、わたしの心を削っていく。その痛みのおかげか、さっきまでの恥ずかしさは消えていた。あきらめとも開き直りともつかない感情に衝き動かされて、わたしは続けた。
「でも、男の人はいいじゃないですか。男性として魅力的な期間が、女性よりずっと長い」
「そうですかね」
「そうですよ。奥平さんなんて、今が一番いいときだと思います」もう何を言っても怖くなかった。「奥平さんは、結婚とか考えないんですか?」
「――そうですね、正直」
 あらためて聞くと、身体中から力が抜けていく。不思議なことに、そのことがもっと軽薄な質問をさせた。
「好きな人もいないんですか?」
「いませんね」
「ずっとですか?」
「いや、そりゃあ昔はいましたよ」
「どんな人?」
「どんなって……高校時代の同級生ですよ。もうとっくに結婚しちゃいましたけどね」

 新宿通りを四ツ谷駅に向かって歩く。景色がいつもと違って見えるのは、このところ午後五時に会社を出ることなどなかったからだろう。あのあと会社に戻りはしたが、仕事は何も手につかなかった。
 遠く正面に並ぶビルの上に、きれいな夕焼けが出ている。きれいな、というのは文字の上のことでしかない。いつの頃からか、空や草花を見ても、美しいと心の底から感じることがなくなってしまった。
 西の空に向かってのびるオレンジ色の筋は、飛行機雲だ。飛行機雲を目にするたびに、思うことがある。留学をしてみたかった。イギリスとかフランスとか、とにかくあの空の向こうへ。
 高校生のときから夢みてはいたけれど、いつかいつかと思いながら、実際にその一歩を踏み出すことはなかった。海外どころか一人暮らしさえ経験しないまま、杉並の実家に今も暮らしている。
 一人だけだが、男性と付き合ったことはある。二十三歳のときから、二年半ほど。社内のイベントで知り合った、二つ年上の人だ。彼は当時、埼玉にある工場の管理部門で働いていて、わたしは週末のたびに大宮の彼のアパートに通った。
 どこが好きだったのかと今問われると、正直答えに困る。サッカーが好きで、鹿島アントラーズの大ファン。それ以外にはとくに趣味もない、素朴な人だった。子どもが好むようなメニューが大好きで、わたしが作るハンバーグやオムライスを喜んで食べてくれた。初めての彼氏ということもあって、わたしのほうはそれなりにのめり込んでいたと思う。いずれはこの人と結婚するのかな、と漠然と考えていた。
 だが二年を過ぎた頃から、彼の態度が目に見えて冷たくなった。恋愛経験の乏しいわたしにしてみれば、わけがわからない。「何か悪いことした?」と訊いても、「別に」と不機嫌そうにかぶりを振るばかり。そんなことがひと月も続くと、さすがに我慢できなくなる。つい感情的になって、「わたしのこと、飽きたんでしょう」と、最悪ななじり方をしてしまった。彼も売り言葉に買い言葉で「そう思いたきゃ、思えよ!」と怒鳴ったが、その直前に目が泳いでいた。たぶん、図星だったのだ。
 悪いことは重なる。その彼と別れてひと月も経たないある夜のこと。仕事終わりに同僚と食事をして、帰宅が終電になってしまった。失恋の痛手も生々しかったわたしは、よほどぼんやり歩いていたのだろう。杉並の住宅街の真ん中で、車に連れ込まれそうになったのだ。
 街灯の少ない通りに入り、停まっていたワゴン車のわきを通り過ぎようとしたとき、突然スライドドアが開いた。男たちは二人組。飛び出してきた一人に後ろから口をふさがれ、車内のもう一人に腕をつかまれて、悲鳴も上げられなかった。もみ合っている最中に、ジョギング中のご夫婦がたまたま通りかかり、ご主人のほうが大声を出してくれた。彼らが現れなければ、どうなっていたかわからない。

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 男たちは車で逃走した。その場にへたり込んだわたしに代わって警察を呼んでくれたのも、そのご夫婦だ。そしてその数カ月後、同じような手口で犯行を重ねていた二人組を逮捕したと刑事さんから報告があった。わたしを襲おうとした件は最後まで認めなかったようだが、その二人の仕業と考えて間違いないだろうとのことだった。
 男たちの顔はまったく覚えていない。当時も刑事さんから人相風体をしつこく訊かれたけれど、何も答えられなかった。時間にして十秒足らずのことだったはずだし、こちらは必死で暴れていたわけだから、当然だろう。
 覚えているのは、わたしの口をふさいだ男の手にしみついていた、タバコの臭い。何度顔を洗ってもその臭いがとれていない気がして、数日間吐き気が続いた。そして、わたしの腕をつかんで車内に引きずり込もうとした男の、血走った目。欲望に乗っ取られたかようなあの目を思い出すと、今も震えが止まらなくなる。
 たて続けに起きたこの二つの出来事によって、わたしは男の性というものを本当に知った気がした。ときに卑劣な暴力もいとわないほど、衝動的。かと思えば、わけもなく一方的に倦んだりもするのだ。そんな、自分でコントロールできないものを男たちが抱えていると思うと、とても怖くなった。その後十年以上に及ぶ空白期間を自らの手でつくってしまったのは、それが大きな原因だろうと思う。

 家のドアを開けると、煮物の匂いがした。母が廊下に顔だけ出し、「おかえり。早いじゃない」と言う。わたしは「ちょっと調子悪くて。風邪かも」と答えて洗面所で手を洗い、そのまま二階の自分の部屋に入った。
 こう言っておけば、しばらくそっとしておいてくれるだろう。わたしはコートをベッドの上に放り出し、それに寄り添うように体を横たえた。
 さして裕福でもない平凡な家庭だ。父は寡黙で、母は苦労性。三つ下に弟がいるが、今は一家でバンコクに駐在している。昔から、互いにずけずけものを言い合う家族ではない。とくに、わたしが三十をいくつか過ぎた頃からは、母はわたしに何かと気を使うようになった。
 わたしのほうでも、両親の気持ちは痛いほどわかっている。弟に子どもが二人いるので、孫がどうのという気持ちはもうないかもしれない。それでも、独り身の娘を残したままでは心配で死にきれないと思っているはずだ。いっそのこと、結婚相談所にでも入って、誰でもいいから結婚してしまうのはどうか。少なくとも、両親は安心してくれるかもしれない――。
 目が覚めると、体に布団がかけられていた。コートはハンガーに掛かっている。枕もとの時計を確かめた。夜十時二十分。四時間も眠っていたらしい。中学生のときから使っている学習机の上に、母が書いたメモがあった。
 〈食卓におにぎり置いてあります。冷蔵庫に煮物もあるので温めて食べなさい〉

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 涙があふれてくる。
 ちがう。わたしは、間違っている。両親のせいにしてはいけない。わたしは、ごまかしている。両親のためだとか言ってはいけない。
 わたしは、さびしいのだ。もう一度、ちゃんと誰かを愛し、愛されたいのだ。
 はなをすすりながら、スマホを手に取った。ツイッターを開く。奥平さんの新しいツイートがあった。
 〈#首都圏雪結晶 来週の後半、上空の寒気に加えて、南海上に低気圧が発生しやすい条件がそろいそうです! 関東地方もこの冬初の降雪となる可能性があります。皆さん、撮影の準備をお忘れなく!〉
 わたしは、なんでこの人を好きになったんだろう。たった二回しか会っていない、よく知りもしない人のことを。
 目じりにしわを寄せて笑う奥平さんの顔が浮かぶ。
 どの瞬間を切り取っても、彼の目には恐怖を感じなかった。科学の素養があるから、人より抑制的なのだろうか。いや、そんなわけはないだろう。でも、彼ならきっと、欲望に振り回されたりしない。理性でそれをコントロールできる。彼となら、何年、何十年と、穏やかに互いを思いやり続けることができる――そんな気がしていた。
 もう、彼に洗いざらいぶちまけようと思った。結果はわかりきっているが、構わない。ここで逃げたら、わたしはもう二度と前に進めない。
 さっきのツイートの投稿時刻は十分ほど前だ。今ならすぐ返事がもらえるかもしれない。わたしは深呼吸して、メッセージを打ち込んだ。
 〈今日はありがとうございました。もう打ち合わせは終わりましたか?〉
 一分もしないうちに、返信が届く。
 〈はい、みんなで食事をして、今帰りのつくばエクスプレスです。予報官と話をしましたが、やっぱりクリスマス頃に降る可能性がありそうですよ〉
 〈みたいですね。ツイッター拝見しました。でも、やっぱりそれまでに傘はお返ししたいです〉
 〈どうしてですか?〉
 〈持っているのが、辛くなりました〉
 反応がない。ためらいながら、まず〈たぶん〉と入力した。消そうか消すまいか迷ったあと、消さずに続きを書く。
 〈たぶん、わたし、奥平さんのことが好きです〉
 送信してから二、三分、間があった。
 〈すみません。やっぱり僕は、あの食事会に行くべきではありませんでした。岸本にどうしてもと頼まれて参加したのですが、きちんと断るべきだった〉
 〈今は結婚する気がないからですか〉
 〈今は、ではありません。この先もずっとです〉
 〈どうしてですか? まさか、高校のときに好きだった人のことをどうしても忘れられないから、とか〉
 〈さすがにそういうわけじゃありません。ただ〉
 そこでメッセージが途切れた。しばらく待っても何も来ないので、しびれを切らして訊き返す。
 〈ただ?〉
 さらに二分ほどの沈黙のあと、続きが届いた。
 〈こう言えばすべてわかっていただけると思うのですが、僕の高校は、男子校です〉

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 夜八時半の北の丸公園は、街を彩るクリスマスイブの華やぎとは無縁だった。
 たまに通りかかるのは犬の散歩に来た人ぐらいで、カップルなどの姿は見当たらない。ここと敷地がひと続きの日本武道館ではロックバンドのコンサートがおこなわれているようだが、終演後も観客たちがこちらまで流れてくることはないだろう。
 奥平さんとわたしは、芝生に面した東屋のベンチに並んで座り、体を縮こまらせていた。ニット帽、手袋、ムートンブーツと、防寒はしっかりしてきたつもりでも、湿り気を帯びた冷たい風が肌まで染み込んでくる。
「お、ついに都内でも雪の報告が出始めましたよ」
 スマホでツイッターを確認していた奥平さんが言った。わたしは使い捨てカイロを頬に当てながら、画面をのぞき込む。
「いよいよですか。それにしても、みなさん熱心ですね。こんな夜に」
「僕たちだって人のこと言えませんよ」奥平さんが笑う。「チキンもケーキもないこんなところで、震えながら雪を待ってる」
 予測されていたとおり、南岸低気圧が発生した。積もるかどうかは別として、関東地方の太平洋側では、今夜、ある程度の雪が見込まれている。朝の情報番組では、キャスターと気象予報士がついに東京でもホワイトクリスマスだと大げさに騒いでいた。
 あれから一週間、わたしと奥平さんはメッセージのやり取りを続けた。短い文面だし、深い話をしたわけではない。他愛ない話題の中に、少しずつ互いの思いを吐き出した。気持ちが落ち着くのは思ったより早かった。奥平さんの性愛が女性に向いていれば、こうはいかなかったかもしれない。おかしな言い方だが、わたしの中にもちゃんと女の性があるのだなと、今さらながら思った。
 一緒に雪結晶の撮影をしませんかと誘ってくれたのは、奥平さんだ。この場所も、彼が指定してきた。気象庁からほど近いここ北の丸公園は、東京の気象観測点になっているそうだ。「露場ろじょう」といって、温度計や雨量計などの観測機器が設置されているらしい。快適な場所や雰囲気のいい場所ではなく、純粋に科学的な理由でここを選ぶあたりが、奥平さんらしいと思った。
 仕事終わりの六時半に九段下のファミレスで待ち合わせ、しばらくそこで待機していた。神奈川でみぞれが降り始めたという情報が三十分ほど前に入ったので、この東屋まで移動してきたというわけだ。
「普段はどんな風にクリスマスを過ごすんですか」わたしは訊いた。
「何もしませんよ。とくに最近はね。富田さんは?」
「わたしも、母が買ってきたケーキを食べるぐらいですかね」苦笑いを浮かべて言う。「もう、それがさびしいとすら思いません。外に出ませんし」
「僕、地元が横浜なんですよ。あっちに住んでた頃は、クリスマスに一人で港のほうまで出かけたりしましたね。ライトアップされた運河沿いを散歩したりするの、好きでした」
「へえ、きれいなんでしょうねえ」景色を想像しつつ、訊ねる。「横浜には、いつまでいたんですか」
「大学三年のときにこっちで一人暮らしを始めたんで――二十歳までかな」
 奥平さんは、すっかり冷えた缶コーヒーを両手で包み、視線を遠くにやった。
「僕、気象少年だったって言ったじゃないですか」
「ええ、ベランダを気象台にして、天気図を描く少年」
「一時期、気象から離れていた期間があるんですよ。高校に入ってから、二十歳のときまで」
「何かあったんですか? あ、運動部に入ったとか?」
「いえ。高校で、彼と出会ったんです」

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「――ああ……」
「経験ありません?」奥平さんは屈託のない声で訊いてくる。「色気づいて好きな子ができたりなんかすると、それまで夢中だったことが、どうでもよくなる。それが急に幼稚に思えたりして」
「わかります」わたしも微笑んだ。
「まさにそれですよ。でも――」奥平さんはわずかに目を伏せた。「僕は、すごく苦しみました。自分の――欲望に。どこにぶつけたらいいか、本当にわからなかった」
「――はい」小さく言うしかできなかった。
 それを気にしたのか、奥平さんはことさら明るく続ける。
「まさに悶々とするってやつですよ。もう気象どころじゃありません」
「その彼とは、親しかったんですか」
「ええ。彼と僕とあと二人、四人でいつもつるんでて。でも、高二の夏にね、彼に彼女ができたんです。近くの女子高に通う、本当にきれいな子でね。まさに、誰もがうらやむ美男美女のカップル」
「――そうですか」
「ちょうど同じ頃に、生物の授業で教師がこんな話をしたんです。『昆虫が花粉を媒介する被子植物では、他のどの器官よりも、花においてその遺伝的多様性が顕著になっている』――」
「えっと……」
「ちょっと言葉が硬すぎますよね。要するに、植物は、花粉を運んでくれる昆虫に対して自分を目立たせるために、色とりどりの美しい花を進化させてきたということです」
「ああ、なるほど」
「それを聞いて、十七歳の僕は考えました。結局のところ、美しさなんてものは、まやかしじゃないかって。美しい花も、美しい鳥も、美しい人も、生殖のためにそうなっているにすぎない。よく言うじゃないですか。美人というのは、遺伝的に生存率の高い平均的な顔のことだって。つまり僕たちは、自分の遺伝子を効率よく残すのに有利な対象を、美しいと感じているにすぎない。美という感覚は、錯覚のようなもの。ただの方便――」
 そこで奥平さんは首をのばし、空を見上げた。雪もみぞれもまだ落ちてきていないことを確かめてから、続ける。
「それから僕は、美しいものを美しいと思わないことにしました。むしろ、エゴが姿を変えた薄汚いものだって。もし僕が絶世の美男子だったとしても、それは僕が子孫を残すことに何の意味もなさないでしょ。つまり僕という人間は、生殖の原理の埒外にいる。だから僕には、美しいものを美しいと認めない権利があるんだ――ってね。高二にもなって、中二病丸出し。ほんと、バカですよね」
「バカだなんて思いませんよ」それどころか、十七歳の彼を抱きしめてやりたい衝動に駆られたほどだ。
「そんな風に自分をなぐさめたところで、苦しさから逃れられるわけじゃありません。僕も彼も東京の大学に進んだので、友だち付き合いは続きました。で、忘れもしません、一九九九年の大晦日。日本中が盛り上がってたじゃないですか」
「そうでしたね。懐かしい」
「高校のときつるんでた四人で横浜港のカウントダウンイベントに行こうってことになりましてね。待ち合わせ場所に行ったら、彼が新しい彼女を連れてきてたんですよ。バイト先で知り合ったとかいう一つ年上の、これまた目が覚めるような美人。肩寄せあって歩く二人を後ろから眺めながら、決めたんです。彼と会うのはこれで最後にしようって」奥平さんはこちらに顔を向け、冗談めかして付け足す。「なんたって、いい区切りだし」
「ミレニアムだし」とわたしも返した。
「人ごみに紛れて、そっとその場を離れました。はぐれてしまったことにしてね。その日以降、彼とは連絡を絶ちました。悪いと思いましたが、一方的に」
「もしかして、東京で一人暮らしを始めたのも――」
「まあ、いろいろリセットする意味でね。彼が今どこで何をしているのかはわかりませんが、結婚したということだけは人づてに聞きました」
「――そういうことでしたか」
「で、ちょっと話は戻りますが――」
 奥平さんは立ち上がり、一歩屋根の外に出た。
「そのミレニアム前夜、みんなの前から黙って消えたあとのことです。僕は家に帰る気分にもなれなくて、一人で横浜の街をさまよってました。でも、赤レンガ倉庫も山下公園も、当たり前ですが人がいっぱいでね。山手のほうまで歩いていって、小さな児童公園に入ったんです。ゾウの形をした置き物というかベンチがあって、そこにぼんやり座ってました。たぶん、泣いてはなかったと思うんですが」
「泣いたっていいじゃないですか」
 奥平さんは「今なら泣けたと思います」と目尻にしわを寄せ、続ける。
「で、しばらくするとね、雪がちらつき始めたんです。あとで調べたところによると、その日の気圧配置は強い冬型だったんですが、北西の風と、北東から回り込む風とが東京湾あたりでぶつかって、収束帯に雪雲が――って、そんなことどうでもいいか」
 わたしは笑ってうなずき、先をうながした。
「その日、僕は今日みたいに紺色のコートを着ていて、袖にどんどん雪結晶がくっついていく。きれいな、ほんとにきれいな樹枝状六花がたくさんあってね。見事な形の結晶が溶けていくのを見ているうちに、気づいたんです。気づいたというか――思い出した」
「思い出した?」
知ってたってことをです。雪の結晶は、雲の中で、完全に物理プロセスのみによって生まれます。何の意図も意味もなく、ただの偶然によって、あの完璧な立体や幾何学模様が形成されている。性とも欲望とも遺伝子とも、関係ありません。なのに雪結晶は、誰が見たって、掛け値なしに、ただ美しい。そんなこと、僕は子どものときから知ってたはずなんです」

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 胸がつまって、言葉が出てこなかった。唾を飲みこみ、やっとのことで「――本当に」とだけ発した。
 そうだ、確かに。この世界で、美を誇っているのは、花や鳥や人だけではない。雪の結晶、雲や空が垣間見せる、無機質の美。見つけられることを望んですらいない、ただそこにある美。潔く、はかない美。わたしだって、それはよく知っている。知っているのに――。
「それを思い出したおかげで、僕は気象少年に戻れたんです。いや、もう少年じゃないですね。立派な気象オタクだ」
 目を細める奥平さんと顔を見合わせていると、今度は鼻がつんとしてきた。
 この人は、欲望をたやすくコントロールできる人などではなかった。誰よりも欲望に苦しんできた人だった。美しいものを憎みながら、それでもまた、美しいものを見つけられる人だった。やっぱり素敵な人だと、あらためて思う。
 奥平さんが「あ」と声を上げ、さらに二、三歩進み出た。空を見上げ、両手を広げる。
「降ってきた」
「ほんとですか」わたしも慌てて立ち上がり、芝生に出る。
 確かに白いものがはらはらと舞い落ちてきている。みぞれではなく、雪らしい雪だ。空を仰ぐと、頬の上で冷たいものが溶けた。
 雪はみるみるうちに勢いを増していく。わたしたちはベンチまでスマホと折りたたみ傘を取りに戻った。外灯の近くまで移動し、撮影を始める。
 開いた傘に付着した雪の粒を、カメラモードにしたスマホでまず観察してみる。スマホにはマクロレンズが取り付けてある。百円ショップで買った安物だが、驚くほどズームが利いた。レンズを結晶に近づけると、細かな構造までよく見える。
 レンズの位置をずらしていくと、きれいな六花を見つけた。
「これ、樹枝状六花ですよね?」横からのぞき込んでいた奥平さんに確かめる。
「そうですね。結晶のまわりに、もやもやしたものが付着しているでしょう。雲粒っていうんです。雲粒の有無も、大事な情報になるんですよ」
 レンズ越しに見る樹枝状六花は、まずその雲粒から溶け始めた。雲粒が消えていくとともに、白っぽかった結晶が透明になっていく。結晶はやがて、ほとんど完璧な形の六花になった。だがそれも一瞬のことで、六本の枝は見る間に短くなり、いびつな形のかたまりと化して、最後には一粒の水滴になってしまった。
 わたしは夢中になって結晶を探し、写真を撮った。素人だからだろうが、どうしても六花にばかり目がいく。樹枝状の他に、広幅六花や十二花らしきものは見つかった。だが、六本の針だけからなるシンプルな六花――星六花はどこにも見当たらない。
 となりの傘で撮影していた奥平さんに訊ねてみる。
「ありますか、星六花」
「うーん、見当たらないですね」奥平さんは自分の観察を続けながら答える。
「そっか……今日の雲では作れないんですかねえ」
「それより、これ見てください。角板付きの六花ですよ」
「わたし、どうしても星六花の写真が撮りたいんです。今日一番のお目当てなんです」
「またスマホの待ち受けにでもするんですか」
「はい。いや、もちろんプロジェクトのために投稿もしますよ」
 そんなことを言い合っているうちに思い出した。「そうだ、わたし、奥平さんにもう一つ告白しなきゃ」
「え、何ですか」奥平さんが顔を上げる。
「ほんとはわたし、気象オタクの素質なんてないんです。雲とか空の写真を集めてるっていうのは、嘘です。奥平さんに気に入られたくて」
「なんだ、そうだったんですか」
「でも、星六花だけは絶対見つけますよ。なんせわたしの結晶ですもん」
「あの、これ、一応データ収集ですから」奥平さんがあきれ顔をつくる。「本来的には、見つけるんじゃなくて、見つかるものを撮ってほしいんですけどね」
「あ、なんかそれ辛い。結婚相手のこと言われてるみたいで」
 声をたてて笑う奥平さんを見て、思った。
 この人に出会えてよかった。
 わたしは今、素直に笑えている。

「星六花」 了
 『月まで三キロ』伊与原新/著
2018年12月21日発売 [定価]1600円+税

世界を形づくる科学のきらめきが人の想いを結びつける六篇の物語。

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 まで三キロ

【公開期間】
2018年11月20日~2019年1月31日(23時59分)まで