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 23:58 田原町駅-稲荷町
 庄司加奈子
(しょうじ かなこ)


     瑞枝さんにだまされたんだろうか……。
 
 加奈子は、矢萩の表情を見て、ふと、そう思った。
 あの人、調子のいいこと言って、案外、ウチの亭主と最初から……。
 
 ぜったいに、あり得ないことではなかった。
 自分の計画にばかり気を取られていて、そんなことは思ってもみなかったが、あの瑞枝にまんまとしてやられたのではないだろうか?
 
 つまり、たとえば、ウチの人と瑞枝が以前からデキていたとする。ああいう男だから、だんだん弱気になって、瑞枝に、もう会わないほうがいいんじゃないかとか、言いはじめる。そこで、瑞枝は一考を案じる。
 あたしに近づき、自分の夫が、どんなにひどい人間かを話す。そういう打ち明け話を聞かされれば、あたしだって自分のことを話さないわけにはいかない。不満を人に聞いてもらうのは、それだけで快感だ。あたしと瑞枝は、どんどん仲がよくなっていった……。
 
 電車の接近する音が次第に大きくなり、加奈子は、小さく息を吸い込んだ。
 なんだか、よけいに腹が立ってきた。
 
 あたしは、あの日、瑞枝に「ウチの人が、死んじゃったらいいのに」と言ってしまった。瑞枝は、驚いたような顔をして、本気? と訊き返した。あたしは、うなずいた。
 
 電車が入ってきて、目の前に停まった。
 開いたドアから、矢萩が乗り込み、加奈子のほうを振り返った。加奈子は、矢萩の後に従うようにして、電車に乗り、前のほうの座席へ移動した。
 
 そう。もしかしたら、あのとき、あたしはすでに瑞枝の罠にはまっていたのかもしれない。
 瑞枝は、ほんとうに死ねばいいと思っているなら、と前置きして、あたしに今度の計画を話したのだ。
 
 シートに腰を下ろし、加奈子は膝に載せたバッグの口を握りしめた。
 隣に座った矢萩の尻が腰にあたり、加奈子は座る位置を少しずらせた。
「…………」
 さらに矢萩が腰を押しつけてきたのを感じて、加奈子は一瞬戸惑った。
 
 なに、この人――。
 
 矢萩は、加奈子に腰を密着させたまま、素知らぬ顔で広告に目をやっている。
 このバカ、なんのつもり?
 顔は素知らぬふりをしているが、魂胆はみえみえだった。
 
 ばかにすんじゃないよ。
 
 ドアが閉まって、電車が動き出すと、加奈子は矢萩を睨みつけるようにして言った。
「いちばん後ろなの?」
 矢萩が、加奈子を見返した。
「いちばん後ろがいいの?」
「上野は、後ろがいいんだ。後ろが改札だから」
 ああそう、と加奈子は矢萩から目をそむけた。
 
 こういう男か。
 加奈子は、気持ちの中で、ふっ、と笑った。
 じゃあ、もっと単純かもしれない。そういうつもりなら、やりようもあるってもんだわ。

 
    矢萩浩幸

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