![]() | 24:09 銀座駅 |
一番面倒なのは、無論、この自分の気持ちだった。 ヒロコは「冗談」と言ったが、それが本当に冗談であるなら、こんな面倒はなにもないのだ。 米寿を超えて、このような子供じみた言葉を使うようなことになるとは、数ヶ月前までは思ってもいなかった。 どうかしていると、自ら思う。 しかし、このひと月ほど、内海の気持ちは寝ても覚めてもヒロコのことばかりだった。 こんな気持ちを味わうのは、いったい何十年振りなのだろう。 遙かに昔のことだ。 妻に先立たれ、子供も1人亡くした。自分で作り上げた会社は、今は他人のものになっている。 幾度も死ぬことを考えた。 それを実行に移そうとしたことも、1度や2度ではない。 その自分が、今は、もっと長生きをしたいと心から思っている。 「むろん、いますぐに返事がほしいとは申しませんよ」 言って、内海は鼻を擦った。 「はいはい」 ヒロコが笑いながら言った。 その言葉が、内海には菩薩の声のように聞こえた。 やはり、この人も……と、内海は思った。 この人も、私のことを必要としてくれている。 誰かに必要とされること――。 その気持ち自体が、内海にとっては久しぶりだった。 誰も、自分を必要としてはいない。もう、自分は厄介物に過ぎない。ひと月前まで、内海はそんな気持ちに苛まれて生きていた。生きていることが、そもそも間違いなのだと、そう思って暮らしていた。 それが、この米良ヒロコの出現で、なにもかも変わった。 「笑われるでしょうが、僕は、学生時代のようにドキドキしているんですよ」 つい、内海は言葉に出して言った。 そんな言葉を言った自分が、はずかしく、しかし嬉しかった。 ヒロコは、優しく菩薩のように微笑んで、内海を見つめ返した。 そう、ヒロコは、内海に笑うことを思い出させてくれたのだ。 彼女の笑いに出会うまで、内海は自分が笑いを忘れていたことさえ、気がついていなかった。笑うということが、こんなにも素晴らしいものだということを、内海はすっかり忘れてしまっていた。それを、このヒロコが思い出させてくれたのだ。 「若いころは、お美しかったでしょうね」 内海は、ヒロコを見つめながら言った。 言ってしまってから、慌てて注釈をつけ加えた。 「いや……もちろん、いまもお美しいが」 いかにもおかしくて仕方がないというように、ヒロコが笑った。 「こんなおばあさんをつかまえて、なにをおっしゃるかと思えば」 内海は首を振る。 「いえいえ。本当の感想です。あんたは、いつも輝いている」 「いやですよ」 はにかむようにして、ヒロコは内海をにらみつけた。 なぜ、この人は……と、内海は思う。 なぜ、このようにいつまでも美しさを失わずにいられるのだろう。 額や頬に刻まれた皺までが、この人にとっては美しさを引き立たせるためのものになってしまっている。 ほんの少し俯きかげんに、ヒロコはホームの床を見つめていた。その表情に、内海は見とれてしまう。 楽しんでいるのだ、と内海は思った。 この人は、生きることの楽しみを知っているのだ。 では、自分にとっての楽しみとは、なんだろう。 そう考えて、ふと思い出した。 「おとつい、曾孫から贈り物をもらったんですよ」 言うと、ヒロコが目を上げてきた。 |
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