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 23:57 田原町駅
 庄司加奈子
(しょうじ かなこ)


     どうにかして、矢萩の怒りをウチの亭主に向けさせなきゃ。
 
 加奈子は、必死でそれを考えた。
 あたしが、この人と一緒に、亭主の前に出て行ったりなんかしたら、なにもかもオジャンになっちまう。
 あの人は、キンタマ縮み上がらせて、あたしに許してくれと言うだろう。矢萩にも、畳におでこをすりつけて詫びるに違いない。そういう人だ。
 でも、それじゃ台無しだ。掛け金がぜんぶ無駄になっちゃう。
 そんなこと、させるもんか。
 
「1番線に参ります電車、渋谷行です」
 
 構内アナウンスが告げた。
 どうしたらいいだろう、と加奈子は考えた。
 なにかうまい手はないだろうか。矢萩の家に着くまでに考えなきゃいけない。もう電車が来ちゃう。ウチの亭主と瑞枝さんが裸になってるところなんかに、この男と踏み込むなんて、まっぴらだ。
 そんなの、バカみたいじゃないか。
 
 加奈子は、大きく息を吸い込みながら、ガランとしたホームを見渡した。
 加奈子と矢萩の他には誰もいなかった。
 なんだか、いやな感じだった。
 
「教室で会ったんだと思うね」
 突然、矢萩が言った。
「なに?」
「他に考えられないからさ。旦那とウチの女房が会ったのは、踊りの教室だよ」
「なに言ってんの? あんた」
「浅草と北千住、そんなに離れてるとも言えないが、近くもない。出会うチャンスなんて、他にあるわけないからな」
「バカ言わないでよ。ウチの人、教室なんか通ってないわよ」
「旦那が通ってなくても、あんたが通ってるだろう?」
「…………」
 
 なにが言いたいのか、と加奈子は矢萩を見返した。
「迎えに来てもらったこととか、あるんじゃないか?」
「迎え?」
「ああ、教室が終わってさ、あんた旦那に迎えに来てもらって、クルマで帰るとか、あったんじゃないか?」
「…………」
 
 どうして、わかったんだろう?
 加奈子は、ゴクリと唾を飲み込んだ。その音が、矢萩に聞こえたのではないかと気になった。
 
「なかったか? そういうこと」
「あったけど……」
 矢萩が、満足そうにうなずいた。
「な。やっぱりそうだ。そのときにさ、旦那はウチのヤツに目をつけたってことだよ」
 
 想像なのか……と、加奈子は少し安心した。べつに、瑞枝さんのあとをつけていたとか、そういうことじゃないらしい。
 
「逆でしょ」と、加奈子は怒ったような声を作って言った。「あなたの奥さんが、ウチの人に目をつけたのよ」
「似たようなもんだ」
 矢萩が、鼻先で笑うように言った。

 
   矢萩浩幸

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