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不意に、沢井は、延原の酔いもさませてやりたくなった。
「あ、人間関係って言えば、忘れてました。今日、吉岡さんから電話があ
ったんですよ」
言ったとたん、延原が一瞬真顔になったのを、沢井は見逃さなかった。
「……吉岡さん?」
はい、と沢井は大げさに頭を下げた。
「すいません。すっかり忘れてました。延原さんが出てたときです。僕の
ほうも、違う電話がかかってて、メモしたんですけど――ごめんなさい。
延原さんの机に置くの忘れてたみたいで」
延原の視線が、落ち着かなく動いていた。
「いや……その、なんだったの? 急な用件かなにか?」
沢井は、あ、いえいえ、と両手を振った。
「そういうんじゃなかったみたいです。用事で近くまでこられたそうで、
ただそれだけでした。連絡させますって言ったんですけど、いや、べつに
いいっておっしゃって」
「ああ、そう……」
先ほどまでは、あれだけ調子のよかった延原が、吉岡の名前を聞いたと
たんにおとなしくなった。
沢井は、お腹の中で舌を出した。
吉岡から電話があったのは嘘ではない。伝えます、と言った沢井に、伝
えなくていい、と吉岡が答えたのも嘘ではない。だから、沢井はその電話
を延原に伝えなかった。
ただ、メモなど、最初から取っていなかった。
気がつくと、電車は田原町に着いていた。
中央のドアから乗り込んできた乗客が、沢井たちの前を通って行った。
「どうも、ほんとにすみませんでした。だめだなあ。ごめんなさい」
沢井は、大げさに言い、何度も延原に頭を下げた。
「いや……」
と、延原が笑顔を作った。
「そんなに、謝ることじゃないじゃないか。べつにいいよ。客のほうだっ
て、連絡を寄越す必要はないって言ってたわけだろ?」
「ええ、そうですけど。いや、延原さんのおっしゃる通りですよね。人間
関係ですよ。それに、相手はお客。だめだなあ。お客さんからの電話も取
り次がないなんて、そうですね、基本がなってないんですよ。すみません
でした。反省します」
「よせよ、もう。謝る必要なんて、ないって」
電車が動き出した。
沢井は、もう一発くらわせてやりたくなった。
「あの……よけいなことかもしれないですけど、その、吉岡さん、なにか
あったんですか?」
「…………」
延原が、沢井を見返した。
「なにかって……どういうこと?」
「いえ、なんだか、なんとなく声の調子が変かなって、思ったものですか
ら」
「声の調子?」
延原が眉を寄せた。
「最初、僕、クレームの電話なのかなって思ったんですよ。声の調子が、
そんな風に聞こえたもんだから。でも、クレームだったら、電話をよこせ、
ぐらい言いますよね。だからそうじゃないんだろうと思いますけど」
このボディブロウは、かなり効いたようだ、と沢井は延原を眺めながら
思った。
もちろん、でまかせだった。
吉岡の口調は、いたってのんきなものだったのだから。
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