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あっ、と沢井が背筋を伸ばした。
「人間関係って言えば、忘れてました。今日、吉岡さんから電話があった
んですよ」
ギクリ、として延原は沢井を見返した。
吉岡が……?
どうして……電話を?
「吉岡さん?」
訊き返すと、沢井は頭を下げた。
「はい、すいません。すっかり忘れてました。延原さんが出てたときです。
僕のほうも、違う電話がかかってて、メモしたんですけど。ごめんなさい。
延原さんの机に置くの忘れてたみたいで」
延原は唾を飲み込んだ。
まってくれ、吉岡が、どうして電話なんてかけてきたんだ?
月末までは、なにもないはずじゃないか。
「いや……その、なんだったの? 急な用件かなにか?」
「あ、いえいえ、そういうんじゃなかったみたいです。用事で近くまでこ
られたそうで、ただそれだけでした。連絡させますって言ったんですけど、
いや、べつにいいっておっしゃって」
「ああ、そう……」
では、気にする必要もないのだろうか、と延原はゆっくりと息を吸い込
みながら思った。
べつにいい……連絡は寄越さなくていい。
なんの電話だったのだろう? もし、電話に出たのが沢井ではなく、オ
レだったとしたら、吉岡は何を言うつもりだったのだろう?
気になった。やはり気になる。
まさか……。
いや、と気持ちの底にわき上がってくる不安を、延原はむりやりに押さ
えつけた。
そんなわけはない。客に、社内の帳簿操作が見えるわけはないのだ。そ
れに、加えてこの忙しさだ。誰も、細かいチェックなどしている余裕はな
い。照合チェックが行なわれるのは、何か問題が起こったときだ。表面化
もしないうちに、そんな面倒なことをはじめるヤツなどいない。
「どうも、ほんとにすみませんでした。だめだなあ。ごめんなさい」
謝り続ける沢井がうっとうしかった。
しかし、あえて、延原は沢井に笑ってみせた。
「いや、そんなに、謝ることじゃないじゃないか。べつにいいよ。客のほ
うだって、連絡を寄越す必要はないって言ってたわけだろ?」
「ええ、そうですけど。いや、延原さんのおっしゃる通りですよね。人間
関係ですよ。それに、相手はお客。だめだなあ。お客さんからの電話も取
り次がないなんて、そうですね、基本がなってないんですよ。すみません
でした。反省します」
「よせよ、もう。謝る必要なんて、ないって」
いいかげんにしろ、と沢井を見返したとき、電車が動き出した。
延原は、チラリとホームに目をやった。
電車が駅に着いていたことに、気がつかなかった……。
「あのう」
と、沢井が顔を寄せるようにして言った。
「よけいなことかもしれないですけど、その、吉岡さん、なにかあったん
ですか?」
え? と、延原は沢井を見返した。その沢井の顔が、ビックリするほど
近くにあった。
「……なにかって、どういうこと?」
「いえ、なんだか、なんとなく声の調子が変かなって、思ったものですか
ら」
「声の調子?」
「最初、僕、クレームの電話なのかなって思ったんですよ。声の調子が、
そんな風に聞こえたもんだから。でも、クレームだったら、電話をよこせ、
ぐらい言いますよね。だからそうじゃないんだろうと思いますけど」
「…………」
クレーム?
そりゃ、なんのクレームだ?
延原は唾を飲み込んだ。
喉が貼りついているような感じで、うまく飲み込むことができなかった。
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