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 23:58 青山一丁目駅
 佐山美智子
(さやま みちこ)


     私、これからどうなっちゃうんだろう?
 佐山美智子はベンチに腰を下ろすと、両手で顔を覆い大きな溜め息をついた。
 お風呂に入りたかった。身体中が汗ばんで気持ち悪い。熱いシャワーを思いっきり浴びて、全身の汚れをひとつ残らず落としてしまいたかった。
 くたくたに疲れ果てていた。気ばかりが焦って、でもどのように行動していいか分からず、ただがむしゃらに歩き続けただけの一日。声をあげて泣きたかったが、涙もすでに枯れ果ててしまっていた。
 美智子は薄汚れたジーパンのポケットに手を突っ込んで、残っているお金をすべて取り出してみた。お札は一枚も残っていなかった。
 ひぃ……ふぅ……みぃ。
 五百円玉が一枚と百円玉が三枚、そして一円玉が二枚。
 あと八百二円……。
 これだけのお金で、どうやって一夜を明かせばいいのだろう?
 もう一度溜め息をつき、それから左の脇腹に触れてみた。まだ痺れたような感覚が残っていて、強く押さえると生理痛に似た鈍い痛みが全身に広がった。
 人に殴られるなんて、生まれて初めてのことだった。父も母も厳しい人間だったが、怒られたことなどまったくといっていいほどなかった。美智子は両親が喜ぶよう、いい娘を演じ続けてきた。自分の気持ちを殺して、毎日を過ごしてきたのだ。

 今日だって、自分の身に起こったとんでもない出来事に戸惑いながらも、門限だけは破ってはいけないと、夕方六時前に家に戻ってきた。「ただいま」と声をかけて中へ入れば、父も母も「お帰り」といつも通りの笑顔を見せてくれると信じていた。
 しかし二人とも、まるで汚い獣でも見るような目つきで美智子を見た。母親は悲鳴をあげ、父親はゴルフクラブを持ち出して彼女の腹に突きつけた。
「私、美智子よ! どうして分かってくれないの? 美智子なのよ!」
 いくらそう訴えても、二人はまったく聞き入れてはくれなかった。母親は「警察、警察……」と呪文のように唱えながら、電話に手を伸ばした。父親はゴルフクラブを振り回し、「きさま、娘をどうした?」と息を荒くしながら怒鳴り散らした。
「だから美智子はここにいるわ」
「分かったぞ。きさま、娘をたぶらかしたんだな。あいつには男友達など必要ないんだ。え? どんな言葉で娘に近づいたんだ?」
「そうよ。あ、あなた……娘にふさわしい相手だと思っているの?」
「いい加減にしてよ!」
 美智子はこれまで一度も逆らったことのなかった両親に対して、自分でも信じられないような言葉を吐き出していた。次の瞬間、父親の振り回したゴルフクラブが美智子の脇腹をかすめていた。
 ――美智子は逃げ出すしかなかった。

 私は佐山美智子だ。間違いなく私は佐山美智子なのだ。私がなにをしたって言うの? これまでずっと、パパとママの言うことを素直に聞いてきたじゃない。それなのに……どうして……。
 視界の隅でなにかがきらりと光った。
 鏡だ――。
 美智子は全身を震わせた。朝から鏡の存在には恐ろしいほど敏感になっていた。
 アイドルタレントが微笑んで写っている生命保険のポスターの横に、誰が落としていったのか、ピンクの手鏡が転がっていた。
 立ち上がり、おそるおそる鏡の前へと歩み寄った。まるで鉛でも引きずって歩いているかのように、足取りは重かった。慣れないジーパンを履いて、一日中歩き回っていたせいか、太ももの辺りがこすれて、じんじんと痺れていた。
 もしかしたら――もしかしたら元に戻っているかもしれない。
 そう祈って、鏡を覗くのは一体、何度目だろうか。そのたびに鏡に映った光景に失望し、どうしようもなくいたたまれない気持ちになるのだ。
 物音がした。振り返ってプラットホームの先に目をやると、背の高い男がショルダーバッグからノートのようなものを引っぱり出しているところだった。
 男はきょろきょろと視線を動かし、ベンチに座ろうかどうしようかと迷っているように見えた。
 あの人がベンチに座らなければ、私は元の姿に戻っている……。
 美智子は勝手にそんな願掛けをして、男の様子を見守った。男はしばらくの間ベンチに視線を向けていたが、歩くのが面倒だったのか、そのまま壁にもたれかかって、膝を曲げた。
 私は元の姿に戻っている……。
 美智子は慌てて手鏡を拾い上げ、自分の顔を映してみた。
 ああ……。
 深い溜め息。
 やはり変わっていなかった。鏡の中には美智子ではない――見知らぬ男の姿が映っていた。
 そう。今朝起きたとき、美智子は見知らぬ家の見知らぬ部屋で、見知らぬ男に変身していたのだ。

(C)1996 KENJI KURODA/JUSTSYSTEM

    背の高い男

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