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私、これからどうなっちゃうんだろう?
佐山美智子はベンチに腰を下ろすと、両手で顔を覆い大きな溜め息をつ
いた。
お風呂に入りたかった。身体中が汗ばんで気持ち悪い。熱いシャワーを
思いっきり浴びて、全身の汚れをひとつ残らず落としてしまいたかった。
くたくたに疲れ果てていた。気ばかりが焦って、でもどのように行動し
ていいか分からず、ただがむしゃらに歩き続けただけの一日。声をあげて
泣きたかったが、涙もすでに枯れ果ててしまっていた。
美智子は薄汚れたジーパンのポケットに手を突っ込んで、残っているお
金をすべて取り出してみた。お札は一枚も残っていなかった。
ひぃ……ふぅ……みぃ。
五百円玉が一枚と百円玉が三枚、そして一円玉が二枚。
あと八百二円……。
これだけのお金で、どうやって一夜を明かせばいいのだろう?
もう一度溜め息をつき、それから左の脇腹に触れてみた。まだ痺れたよ
うな感覚が残っていて、強く押さえると生理痛に似た鈍い痛みが全身に広
がった。
人に殴られるなんて、生まれて初めてのことだった。父も母も厳しい人
間だったが、怒られたことなどまったくといっていいほどなかった。美智
子は両親が喜ぶよう、いい娘を演じ続けてきた。自分の気持ちを殺して、
毎日を過ごしてきたのだ。
今日だって、自分の身に起こったとんでもない出来事に戸惑いながらも、
門限だけは破ってはいけないと、夕方六時前に家に戻ってきた。「ただい
ま」と声をかけて中へ入れば、父も母も「お帰り」といつも通りの笑顔を
見せてくれると信じていた。
しかし二人とも、まるで汚い獣でも見るような目つきで美智子を見た。
母親は悲鳴をあげ、父親はゴルフクラブを持ち出して彼女の腹に突きつけ
た。
「私、美智子よ! どうして分かってくれないの? 美智子なのよ!」
いくらそう訴えても、二人はまったく聞き入れてはくれなかった。母親
は「警察、警察……」と呪文のように唱えながら、電話に手を伸ばした。
父親はゴルフクラブを振り回し、「きさま、娘をどうした?」と息を荒く
しながら怒鳴り散らした。
「だから美智子はここにいるわ」
「分かったぞ。きさま、娘をたぶらかしたんだな。あいつには男友達など
必要ないんだ。え? どんな言葉で娘に近づいたんだ?」
「そうよ。あ、あなた……娘にふさわしい相手だと思っているの?」
「いい加減にしてよ!」
美智子はこれまで一度も逆らったことのなかった両親に対して、自分で
も信じられないような言葉を吐き出していた。次の瞬間、父親の振り回し
たゴルフクラブが美智子の脇腹をかすめていた。
――美智子は逃げ出すしかなかった。
私は佐山美智子だ。間違いなく私は佐山美智子なのだ。私がなにをした
って言うの? これまでずっと、パパとママの言うことを素直に聞いてき
たじゃない。それなのに……どうして……。
視界の隅でなにかがきらりと光った。
鏡だ――。
美智子は全身を震わせた。朝から鏡の存在には恐ろしいほど敏感になっ
ていた。
アイドルタレントが微笑んで写っている生命保険のポスターの横に、誰
が落としていったのか、ピンクの手鏡が転がっていた。
立ち上がり、おそるおそる鏡の前へと歩み寄った。まるで鉛でも引きず
って歩いているかのように、足取りは重かった。慣れないジーパンを履い
て、一日中歩き回っていたせいか、太ももの辺りがこすれて、じんじんと
痺れていた。
もしかしたら――もしかしたら元に戻っているかもしれない。
そう祈って、鏡を覗くのは一体、何度目だろうか。そのたびに鏡に映っ
た光景に失望し、どうしようもなくいたたまれない気持ちになるのだ。
物音がした。振り返ってプラットホームの先に目をやると、背の高い男
がショルダーバッグからノートのようなものを引っぱり出しているところ
だった。
男はきょろきょろと視線を動かし、ベンチに座ろうかどうしようかと迷
っているように見えた。
あの人がベンチに座らなければ、私は元の姿に戻っている……。
美智子は勝手にそんな願掛けをして、男の様子を見守った。男はしばら
くの間ベンチに視線を向けていたが、歩くのが面倒だったのか、そのまま
壁にもたれかかって、膝を曲げた。
私は元の姿に戻っている……。
美智子は慌てて手鏡を拾い上げ、自分の顔を映してみた。
ああ……。
深い溜め息。
やはり変わっていなかった。鏡の中には美智子ではない――見知らぬ男
の姿が映っていた。
そう。今朝起きたとき、美智子は見知らぬ家の見知らぬ部屋で、見知ら
ぬ男に変身していたのだ。
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