日下部には、現在自分が置かれている状況がまったく理解できなかった。
わけもわからぬまま、銀色に光る鉄道に乗り、漆黒の隧道の中を移動している。耳を聾する騒音が果てしなく続く。
なにか、とてつもない間違いを自分がおかしているような気持ちがする。同時に、すべてがすでに決められた事の推移のようにも思えるのだった。
奇妙なことだ……。
日下部は、ふう、と息を吐き出した。
「誰に似てるの?」
浜子に似た女が訊いた。
その声は、これだけの列車の騒音の中にあっても、明瞭に日下部の耳元に届いた。
「誰、と言われますと?」
クスッと、また女が笑う。よく笑う女である。口許も隠さずに歯を見せて笑う。行儀は悪かったが、なぜかそれがとても自然に思えた。
「言ったじゃない。あたしが誰かに似てるって」
「ああ……妻です」
言うと、女は眼を丸くして日下部を見つめた。
「妻って……結婚してるわけだ」
妙な言葉遣いで女は言った。まるで男のような口をきく。
「正確には、妻だった者です。浜子というのがその名前ですが、ひと月ほど前に他界しました」
「他界……って、亡くなったってこと?」
「はい。胸の病でした」
「ごめんなさい。そうとは知らないで」
女は、自分の膝の上に視線を落とした。
「まもなく稲荷町、稲荷町です」
誰が言ったのかと、日下部は頭を巡らせた。
次の停車駅を告げたのだろう。だとすれば、車掌か。しかし、車掌らしき制服は、車内のどこにも見あたらなかった。
「お祖母さんのね」と、女が言った。「伯母さんって、どう呼べばいいの?」
「は?」
日下部は、女を見返した。
「お母さんのお姉さんなら、伯母さんでしょ? お祖母さんの伯母さんは、なに?」
「……さあ? よくわかりませんが。なぜ、そのようなことを?」
女は、前を向いたまま、首をすくめるようにした。
「あたしのお祖母ちゃんの伯母さんも、浜子っていう名前だったの」
え? と、日下部は眼を見開いた。
「そんな……そのような時代に、浜子などというハイカラな名前が?」
「ハイカラ?」
女が、素っ頓狂な声を上げた。
「ハマ、とおっしゃったのではないですか? 大政奉還の前に浜子などという名前が?」
女は、眉を寄せるようにして、日下部を見た。
「あなた、なに言ってんの?」
「いや……その」
「酔っぱらってるようには見えないけど、どうして、そんな時代劇みたいなしゃべり方ばっかりするわけ? たいせーほーかんって、なんだっけ。歴史で習ったような気もするな」
「大政奉還は……帝の御代になったときの……」
日下部は、言いながらこれはやはり妙だ、と思った。
この銀色の鉄道もそうだし、姿の見えない車掌も、そしてこの女の言葉も。ここは、まるで別世界だ。
「ミカドノミヨってなに? 日本語で喋ってよ」
窓の向こうの黒い壁が途切れ、いきなり車外が明るくなった。
どうやら、駅に到着したらしい。
列車が停止すると、さきほど田原町でも聴いたピンポンピンポンという音が鳴り響き、それと同時に、シュウ、と蒸気に似た音がして引き戸が開いた。
「とにかく」と女が言った。「お祖母ちゃんの伯母さんて人が浜子って名前だったの。日下部敏郎と浜子って大ロマンの伝説になってんのよ。それだけのこと」
「…………」
日下部は、ポカンと口を開けた。その口からは、声が出なかった。
日下部敏郎と、浜子――?
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