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 23:59 田原町-稲荷町
 榎本ひとみ
(えのもと ひとみ)


     思ったより、これはかなり酔っちゃったのかもしれない、とひとみは小さく首を振った。

 酔っているという自覚はまるでない。どちらかと言えば、気分は爽快だ。
 でも、はじめて会った男の人に隣の席を勧め、しかも、なんだかいい気分になっちゃってるというのは、どう考えたって普通じゃない。
 誘われてるって、勘違いされちゃうかもしれないんだよ。正気なの? ひとみちゃん。

 しかし、そう思いながらも、ひとみは今のウキウキした気分を壊したくはなかった。どうしてウキウキしているのか、まるでわからなかったけれど。

「誰に似てるの?」
 とひとみは隣の男に訊いた。
「誰、と言われますと?」
 なんだか、まるでお姫様と家老みたいな会話だ、とひとみは笑った。男の言葉遣いは、どこか現実離れしていて面白かった。

「言ったじゃない。あたしが誰かに似てるって」
「ああ……妻です」
 びっくりして男を見返した。
「妻って……結婚してるわけだ」
「正確には、妻だった者です。浜子というのがその名前ですが、ひと月ほど前に他界しました」

 ひとみは、眼を瞬いた。
「他界……って、亡くなったってこと?」
「はい。胸の病でした」
 まずかったかな、と唇の端を噛んだ。
「……ごめんなさい。そうとは知らないで」

 車内アナウンスが流れ、男が、またキョロキョロと辺りを見回した。
 その様子を見て、ひとみは少しホッとした。奥さんの死を嘆き悲しんでいるというわけでもなさそうだ。
 浜子さん、か。
 ふと、ひとみは思い出した。

「お祖母さんのね、伯母さんって、どう呼べばいいの?」
「は?」
 車内を見回していた男が、ひとみに目を返した。
「お母さんのお姉さんなら、伯母さんでしょ? お祖母さんの伯母さんは、なに?」
「……さあ? よくわかりませんが。なぜ、そのようなことを?」
「あたしのお祖母ちゃんの伯母さんも、浜子っていう名前だったの」

 言ったとたん、思ってもいなかったような反応が男から返ってきた。
「そんな……そのような時代に、浜子などというハイカラな名前が?」
「ハイカラぁ?」
 なんて古くさい言葉を使うヤツだ。それに、浜子のどこかハイカラなのか。
 しかし、男はさらに妙なことを言いはじめた。

「ハマ、とおっしゃったのではないですか? 大政奉還の前に浜子などという名前が?」
 言ってることが、よくわからない。
「あなた、なに言ってんの?」
「いや……その」
「酔っぱらってるようには見えないけど、どうして、そんな時代劇みたいなしゃべり方ばっかりするわけ? たいせーほーかんって、なんだっけ。歴史で習ったような気もするな」
「大政奉還は……帝の御代になったときの……」
「ミカドノミヨってなに? 日本語で喋ってよ」

 電車が稲荷町の駅に着いた。
 また、男のキョロキョロが始まった。
 ひとみは、ふう、と溜め息をついた。ちょっと、ついていけないな、こいつ。

「とにかく、お祖母ちゃんの伯母さんて人が浜子って名前だったの。日下部敏郎と浜子って大ロマンの伝説になってんのよ。それだけのこと」
 言って、ひとみは鼻をこすりあげた。


 
    隣の男

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