|
ホームへ降りる階段の一番下の段に、男が1人腰を下ろしていた。
溝江賢三は、その男の脇をすり抜けるようにして、ホームへ降りた。
中央に向かって足を進め、いや、神田の出口は一番後ろにあった、と思
い直してその場に立ち止まった。絢子が、彼の横へ並んで立った。
時計を眺める。12時になるところだ。
いてくれよ、と賢三は溜め息をつきながら胸の中で念じた。
「あたしが、行ったほうがいいんじゃないですか?」
横で、絢子が言う。
「なにが」
賢三は、線路の向こうの広告板に目をやったまま訊き返した。
「恭三さんのとこ」
賢三は、頭を振った。
「だって、病院のほうには、あなたが行かなくちゃ」
「すぐに行くよ」
怒ったような口調になっている。
絢子の口調にもトゲがあった。
「あたしだけで行くなんて、具合が悪いわ」
賢三は、チラリと妻に目をやった。
「だから、俺もすぐに行くと言ってるじゃないか。お前だけじゃない。す
ぐに来ますからと言えばいいんだ」
「お義父さんが来てほしいって言ってるのは、あなたですよ。あたしじゃ
ないわ」
賢三は、絢子をにらみつけた。
賢三にだってわかっている。
親父の命は、もう数日だろう。医者は半月前に「残念ですが」と言った。
親父は延命処置を嫌ったし、お袋も機械に生かしてもらうなんていやだと
医者に言ったそうだ。薬だけで痛みを抑えている。今日は3度吐血したと
いう。吐く血の量が、どんどん減っている。もう、吐く血液さえ残ってい
ない。
もしかすれば、意識のある親父に会うのは、今日が最後かもしれない。
絢子が言うのも、だから理解できる。
理解はできるが、恭三のことも知らんぷりですますわけにはいかない。
「あたしが、行きますよ。そのほうがいいじゃないの。お義父さんは、恭
三さんのことなんて、ひとっことも言ってないんだから」
「お前に親父のなにがわかる。恭三の気持ちだって知りやしないくせに」
じゃあ、わかっているのか……と、賢三は自分に訊いた。
お前は、恭三の気持ちをどれだけ理解できるんだ?
絢子の溜め息をつく音が、賢三の耳に聞こえた。
|