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1人でさっさと階段を降りて行く夫の
背中を見つめながら、絢子はそっ
と唇を噛んだ。
気が重かった。気の重さが、そのまま足も重くしている。
階段に腰を下ろして通路をふさいでいる男
の脇を抜け、絢子は夫の後
を歩いた。できることなら、このまま帰ってしまいたかった。もちろん、
それが無理なことはよく知っている。どうせ、帰ったところで、眠ること
などできないにきまっているのだ。
賢三が立ち止まり、その脇へ絢子も並んだ。
「あたしが、行ったほうがいいんじゃないですか?」
ずっと、喉につかえていた言葉を、絢子は口に出した。小声で言ったつ
もりだったが、意外に声は大きく響いた。ホームには、ほとんど人がいな
かった。
「なにが」
ぶっきらぼうに、夫が訊き返す。
「恭三さんのとこ」
賢三は答えず、ただ首を振った。
「だって、病院のほうには、あなたが行かなくちゃ」
「すぐに行くよ」
と、夫は答えた。
来られるもんですか。
絢子は、1週間前に聞いた恭三の言葉を思い出しながら、小さく頭を振
った。
「親父にも、お袋にも、兄貴にも、オレは一生会わないよ。会って、なに
が変わる? 同じことだ。変わりゃしないよ」
恭三は、つぶやくように、そう言ったのだ。
絢子は、夫の横顔を見つめた。
「あたしだけで行くなんて、具合が悪いわ」
「だから、俺もすぐに行くと言ってるじゃないか。お前だけじゃない。す
ぐに来ますからと言えばいいんだ」
そういうことじゃない。
あなたにはわからないでしょう。病院にあたしだけが行って、お義父さ
んのベッドの脇にお義母さんと並んで立って、それがどんな気持ちか、あ
なたにはわからないのよ。
「お義父さんが来てほしいって言ってるのは、あなたですよ。あたしじゃ
ないわ」
ぶつけるように言うと、賢三は絢子をにらみつけてきた。その視線は、
すぐに前方へ返された。
我慢できないだろう、と絢子は思った。
お義母さんだって、そう思っている。
「あら、賢三は?」
あたしの後ろを見やりながらお義母さんは言うだろう。恭三さんを連れ
て来るって、神田に寄ってるんです。そう言ったときのお義母さんの表情
が目に見える。
いやだ……と、絢子は思った。
「あたしが、行きますよ。そのほうがいいじゃないの。お義父さんは、恭
三さんのことなんて、ひとっことも言ってないんだから」
「お前に親父のなにがわかる。恭三の気持ちだって知りやしないくせに」
絢子は、溜め息をついた。
恭三さんの気持ちは、あたしが知ってる。あなたよりも、ずっと、ずっ
と知ってる。
絢子は、またそっと唇を噛みしめた。
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