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 24:00 上野駅
 溝江賢三
(みぞえ けんぞう)


     気が重かった。
 これから先のことを考えると、すべてに対して気が重い。

 とうとう親父は、なにもかもを俺に押しつけて逝ってしまう。自分はいいところだけ取って、後始末はなにもかもが俺だ。
 おそらく、全部が吹き出してくるだろう。親父が生きている間、押さえつけられていたすべてのことが、いっぺんに表面に浮き出してくる。

 どうせ、俺は小者だ。

 と、賢三は、目の前の広告板の中から微笑みかけてくる美女を見つめながら思った。

 俺に、社内の右派と左派を抑える腕はない。親父が会長に退いたとき、一時的に社内がまっぷたつに割れた。俺は頭を抱え、親父に相談し、そして結局、親父が河野と斉藤を説得したのだ。前社長の顔を立てて河野派も斉藤派も、一応、俺を支持する体制を取った。だが、親父が死ねば、そんな見せかけはすぐに崩れる。今度こそ、社は二つに割れる。それをまとめる腕は、俺にはない。

 それに、社内が見かけだけでもまとまってくれていたのは、この構造不況があったからだ。危機感が、仲間割れにブレーキをかけていた。しかし、いつまでも不況ではない。徐々に景気は上を向きはじめている。前年比280%のマニラ支社。サンパウロも230。喜ぶべきだろう。
 だが、ほんとうにそれを喜んでいていいのか?

 俺を枕元へ呼んで、親父は何を言うつもりだ?
 あとを頼む、か?
 満足だろうよ、親父も。

 ふと、気づいて、賢三は絢子に訊いた。
「彰男は、いつ戻る?」
 絢子が、賢三を見返した。その視線には、トゲがあった。
「来年ですよ」
 と、絢子は冷たく言った。
「親父のことは、知らせてあるのか」
「入院してることは知ってますよ」
「…………」

 妻の口調が、賢三の癇にさわった。
 入院してることは知ってますよ? それは、なんだ? 連絡してやろうという気持ちもないのか。
 親父の死に目に会わせてやりたいという気持ちが、お前にはないのか?
 どこまで冷たい女だ。

 怒鳴りつけてやりたい気持ちを、賢三は抑えた。
 怒鳴ったところで、なにもならない。結局は、俺が厭な気分を味わわされるだけのことだ。
 絢子は、自分のことしか考えない女だ。自分と彰男を被害者だときめてかかっている。加害者は、親父であり、お袋であり、そして俺なのだ。人の気持ちや、事情や……そんなものはいっさい目に入れようとしない。

「一番線、まもなく、渋谷行、参ります。一番線に参ります電車、渋谷行でございます」

 電車の到着を、アナウンスが告げた。
 賢三は、気持ちを抑えながら穏やかな口調を作って言った。

「呼んだほうがいいかな」
「呼ぶ?」

 わかりきったことを、絢子が訊き返した。
 優しく言ってやったことを後悔した。

「彰男だよ」
「お義母さんに相談したらどうですか?」

 賢三は妻を見つめた。
 なんだ、その言いぐさは。

「お袋? お袋は関係ない」
「そうですか」
「…………」

 嫌味な言葉に、賢三は絢子を睨みつけた。
 妻は、固い表情のまま、前を向いていた。


    絢子
  

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