とうとう、恐れていたものがくる……と、絢子はバッグの口を握りしめた。
賢三の父親が入院してから、いや、それよりもずっと以前から恐れ続けていたもの。
義父の死。
もちろん、恐れの正体は義父の死そのものではない。お義父さん――いや、溝江勇三に対する気持ちなど、もう23年前から冷えている。あの人があたしに対して持っている気持ちだって同じことだ。目の前であの人の死を見せられても、あたしはなにも感じないだろう。さようなら、とただひとこと言ってやるだけだ。
恐れているのは溝江勇三の死そのものではない。それによって、お義母さんがあたしの生活に入ってくることが恐怖なのだ。
線路の向こうの煤けた壁を見つめながら、絢子は舌の先に触れる唇の甘皮をそっと前歯の間に挟んではがし取った。
そのことについて、賢三と話をしたことはない。
絢子はその話が出るのを恐れたし、賢三のほうも、おそらく彼なりの煩わしさのようなものを感じていただろうから。
しかし、勇三が死んだとなれば、否応なくそれは現実になる。
賢三のことだから、絢子にはなんの相談もなく、お義母さんの部屋の用意をはじめることだろう。それが当然の長男の義務だから……。
そう。
この人は、ずっとそうだった。
父親は、この人にとって絶対の存在。だから、父親を支配していた母親の存在も、また絶対なのだ。
「彰男は」と、横で賢三が口を開いた。「いつ戻る?」
絢子は、ゆっくりと夫を見た。
「来年ですよ」
「親父のことは、知らせてあるのか」
「入院してることは知ってますよ」
そのまま、賢三は口を閉ざした。
絢子は、手のバッグを胸の前に抱え上げた。
だから、どうだというの?
お祖父ちゃんが生きているうちに、会わせてやりたいとでも言うの?
それとも、父親に会いに来い、とでも言うつもり?
そんな度胸も、なにもないくせに。
ロンドンにいる彰男からは、先月の末にエアメールが届いた。そこには、そっけなく、金山寺味噌を送ってくれとだけ書いてあった。
賢三が息子の名前を口にするのは何ヶ月ぶりだろうかと、絢子は思った。いや、この23年間に、何度、この人は彰男の名前を口にしただろう。
「一番線、まもなく、渋谷行、参ります。一番線に参ります電車、渋谷行でございます」
構内アナウンスがホームに響いた。
意味もなく、絢子はホームに視線を巡らせた。
階段に腰を下ろしていた男が、アナウンスに答えるように腰をあげた。同時に、その後ろから長髪の男が階段を降りてきた。
「呼んだほうがいいかな」
賢三が、つぶやくように言った。
それを口にするまで、かなりの時間がかかっていたことに、絢子は小さく溜め息をついた。わざと訊き返した。
「呼ぶ?」
「彰男だよ」
夫は、怒ったような口調で言った。
「お義母さんに相談したらどうですか?」
「お袋? お袋は関係ない」
「そうですか」
絢子は、言って、前方に目をやったまま口を閉ざした。
賢三が、自分を睨みつけるように見ている。絢子は、夫に視線を返さなかった。
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