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 24:00 上野駅
 石垣和博
(いしがき かずひろ)


     誰もが事情を持っている。
 と、石垣は前方の夫婦を眺めながら思った。

 も、も、線路の向こうの壁に目を向けている。並んで電車を待っている。
 家に帰るのか。あるいは、どこかへ出掛けるのか。こんな真夜中に出掛けるのだとすれば、なにかの事情があるのだろう。
 外から他人が見ただけでは、わからない事情……。

 妙子には、どんな事情があったのか。

 想像がつかなかった。
 石垣には、妙子が自分を捨て、行方をくらませなければならないような事情など、想像もつかなかった。
 愛し合っていたはずだ。そうではなかったのか?

 いつのまにか、石垣は、この3年間ずっと巡らせ続けてきた考えを、また繰り返しはじめていた。自分でも、堂々巡りになるとわかっている結論のない虚しい思考。

 妙子の失踪は、彼女自身の意志だったのだろうか?
 どんな可能性があるだろう?

 はっきりとした結婚の約束こそしなかったが、二人ともそのことはずっと頭にあったはずだ。石垣だけが一方的に思い込んでいたのではない。なぜなら、彼女は言った。

「ネコが飼えるような家に住みたいな。あなたも、ネコ、好きでしょ?」

 どちらかっていうと僕はイヌだな、と石垣は答えた。
 妙子は「やだ、ネコよ。ぜったい、ネコ」と、口を尖らせて言った。

 結婚の気持ちがあったからこそ、妙子はそう言ったのではなかったのか?
 一緒の家に住むことを考えない相手に言う言葉ではないはずだ。

 それに……と、石垣は思った。妙子は、失踪の二日前に新しいイーゼルを買っている。その買い物には、石垣もつきあった。木製のがっしりしたイーゼルで、かなりの重さがあった。その重いイーゼルを彼女のアパートに運んだのは石垣自身だ。
 妙子が失踪したあと、石垣がアパートの部屋へ行くと、そのイーゼルはベッドの脇に立てて置かれていた。載せられていたキャンバスには、石垣の顔が描かれていた。

「一番線、まもなく、渋谷行、参ります。一番線に参ります電車、渋谷行でございます」

 アナウンスが流れて、石垣は階段から腰を上げた。
「あ……」
 と、真後ろで声がして、石垣はそちらを振り返った。
 長髪の男が、石垣を避けるようにして立っていた。

「あ、すみません」
 謝ると、男は、いいえ、と首を振り、石垣の脇を回ってホームへ降りた。そのまま、男は前方の夫婦の向こうまで歩いて行った。
 石垣は、ふう、と息を吐き出し、一番手前の乗車位置表示へ歩いた。

 もし、妙子が、自分の意志によって姿を消したのなら、なぜ、買ったばかりのイーゼルをアパートに残して行ったのか。
 イーゼルだけではない。大事にしていた画材も、気に入っていた柘榴の絵も、シャガールの画集も、なにもかもがアパートに残されていた。
 妙子は、着の身着のまま、ただ丸井の紙袋だけを手に提げて、消え去ってしまったのだ。

 それが、彼女の意志なのか?
 旅行用のスーツケースでさえ、アパートの押し入れに残っていたではないか。

 近づいてくる電車の音を遠くに聞きながら、石垣は、ギュッと眼を閉じた。


 
     夫   妻  長髪の男

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