やや急ぎ足で、狩野亜希子が戻ってきた。
あの若者の姿はない。見失ったのか?
「野郎は?」
竹内は、線路のほうへ目をやったまま訊いた。
「どうやら、無関係です。それよりも、ホシは浅草方面へ逆行して逃走の可能性があります」
なんだ、そんなことか。
やや、拍子抜けして、竹内はうなずいた。
「どうやら、という言葉は、あんたらしくないな。無関係という判断の根拠は?」
「ありません。カンです」
その答えに、竹内は亜希子を見返した。
「カン? ほう。狩野亜希子がカンで判断するのかい?」
嫌味を言うと、亜希子は、照れたように口元をほころばせた。
「判断じゃありません。優先順位の問題です」
「ふむ。カタがついたら、一度、ゆっくり聞かせてほしいな。カンと判断の違いのあたり」
「はい」
「で、クーラーバッグの似合う若造よりも優先順位が高い問題はなんだ?」
「ですから、逆行の――」
竹内は、線路のほうへ顔を向けた。
「線路に飛び降りて逃げる可能性だろ?」
言うと、亜希子は、やや声を落とした。
「それも考えましたが、このホシの考えているのはもっと単純なことのようです」
単純なこと……。
亜希子の言おうとしていることが、よくわからなかった。
目を向けると、亜希子は小さくうなずいた。
「渋谷行の発車時刻は0時14分です」
「うむ」
「その同時刻、浅草行の最終電車がこのホームから発車します」
「なに……?」
思わず、竹内は自分の後ろを振り返った。
同時刻に、浅草行が?
「ほんとか?」
訊き返すと、もう一度、亜希子がうなずいた。
「少なくとも、時刻表の上では」
「うむ……」
竹内は、ホームを横断して2番線の白線まで歩いた。
7歩だった。
ホームの幅は、7歩しかない。
同時刻に渋谷行と浅草行がこのホームを発車するということは、発車する前、二つの電車が向かい合って停車している時間があるということだ。
むろん、そのとき、どちらの電車もドアを開けている……。
竹内は腕の時計を見た。12時をすぎた。時間がない。
足を返し、亜希子に言った。
「悪いが、上の連中に至急何人か寄越すように言ってきてくれ」
「了解」
言うなり、亜希子は松屋方面出口の階段を上りはじめた。
階段を上っていく亜希子の後ろ姿を見やり、その目を再び2番線のほうへ返した。
なるほど、犯人が兼田勝彦を最後尾車輛に乗せた意味は、これか。
銀座駅のプラットホームは、この松屋方面出口付近だけ幅が狭まっている。ようするに、ホームがサツマイモのような形で中央が膨らみ、端のほうが細くなっているのである。
いま、竹内が自分の足で横断してみたところでは、7歩だった。
電車が駅に停車している時間は、せいぜい10秒から15秒程度。7歩の距離なら、渋谷行から浅草行に乗り移るのは造作ない。身代金の受け渡しに多少手間取ったとしても、充分の余裕がある。
しかも、それは、現在こちらへ向かってくる浅草行の電車に――その先頭車輛に犯人が乗っているという可能性も含んでいるのだ。
浅草方面へ逆行か……それだけじゃない。渋谷行に乗り換える可能性だってあるぞ。
竹内は、手に持っていた新聞の角を頬にこすりつけた。
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