妙子自身の意志だったのだと仮定しよう。
石垣は胸の前で腕を組みながら考えた。
失踪が、彼女自身の意志によるものだったと仮定してみる。
では、その意志は、どの時点で現われたのか?
石垣が妙子と最後に会ったのは、失踪の二日前だ。彼女がイーゼルを買った日。
あの日、すでに彼女が姿を消すことを考えていたとは、やはりどうしても思えない。
翌日が早かったから、石垣は、その日は妙子のアパートには泊まらなかった。一緒に食事をし、交代でバスを使い、そして、畳に敷いた布団の上で抱き合った。
「向こうから、電話ちょうだいね」
翌日から4日間、石垣が熊本へ出張だと知っていた妙子は、別れるときにそう言った。
もし、彼女が、それが最後の夜だと思っていたのなら、そんな言葉は使うまい。実際、熊本のホテルから、石垣は毎晩妙子のアパートに電話をかけたのだ。
シャカシャカ、と妙な音が耳について、石垣は後ろを振り返った。
茶髪の男の子が、石垣の斜め後ろに少し離れて立っていた。両耳にイヤホンを差し込み、眼を閉じたまま、身体をスイングさせている。テープの歌手になりきっているのか、ブツブツとつぶやくように口を動かし続けていた。
石垣は、目を前へ戻した。
イーゼルを買ったのは、5月14日だった。
だから、その日は、まだ失踪の意志は現われていない。
翌日の夜、石垣は熊本から妙子に電話をかけた。
「浮気なんか、してないだろーね」
妙子は、笑いを含んだ声で石垣にそう言った。
なにも告げずに別れようとしている男に、そんな言葉を言うものだろうか?
だから、5月15日の時点でも、妙子には失踪の意志はなかった。
そして、決定的なのは、その翌日の夜だ。
5月16日の夜。正確に言えば、その8時過ぎ。石垣は、妙子にまた電話をかけた。
その電話で、妙子は「あなたの顔、描いたの」と言った。
「記憶だけで描こうと思ったんだけど、ちょっとズルして写真見ちゃった。耳の形、考えてたらよくわかんなくなっちゃったの」
その言葉に、石垣は「愛が足らない」と文句を言った。妙子は「じゃ、あたしの耳の形、描ける?」と言い返してきたのだ。
電車の接近音が急激に大きくなり、石垣は右手のトンネルに目をやった。
妙子が乗った電車――。
息苦しいような思いで、石垣は、その電車を迎えた。
銀色のボディ。オレンジ色の帯。車両のきしむ音。
電車が停止して、ピンポンピンポン、とチャイムが鳴り響く。同時に、ドアが開く。
「上野でございます。この電車、渋谷行でございます」
いきなり、派手なジャケットを着た男が、ドアから飛び出してきた。男の子を連れた婦人が「なに、あの人」と怒ったように言った。
親子が降りるのを待って、石垣は電車に乗った。
乗客は少なく、空席もかなりあったが、石垣は反対側のドアの脇へ行き、車掌室と客室を仕切っている壁に背をもたせかけて立った。
16日の夜8時にかけた電話も、妙子の言葉に異変は感じなかった。
彼女がその日描いたという絵を、石垣は数日後に見た。耳だけは写真を見ながら描いた彼の肖像が、イーゼルの上に載っていた。
そして、その深夜、妙子は誰にも告げることなく、この電車に乗って姿を消した――。
いつなのだ?
石垣は、眼を閉じた。
いつ、妙子は失踪の意志を持ったのだ?
彼女の電話の声は、今も石垣の耳に残っている。その声に、不審な響きなど、どこにも含まれてはいなかった。電話を切るとき、彼女は、こう言った。
「じゃあね。また明日、声聞かせてくれるでしょ?」
翌日、もちろん石垣は妙子に電話をかけた。
だが、いくら待っても受話器は取り上げられなかった。呼び出し音が20回鳴って、電話は、いきなり留守録に切り替わった。妙子の電話にはそういう機能がついている。留守録ボタンを押し忘れたような場合、呼び出し音20回で自動的に留守録が働き始める。
「はい、ドア閉まります」
アナウンスが告げ、零時2分発渋谷行のドアが閉じた。
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