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 24:01 上野広小路駅
 芳賀喜智
 (はが よしとも)


     もちろん、拾ったものは届けなければいけないことぐらいわかっている。
 だが、あの紙包みをトイレの中で拾ってから、すでに三日が経ってしまった。今ごろ警察に届けるのもおかしい。どうしてすぐに届けなかったのかと訊かれても、答えられない。答えられない以上、届けることはできない。

 今の清掃会社で働くようになって、もう18年になる。大きな機械を扱うような仕事は芳賀にはやらせてもらえなかったから、給料は安い。安いくせに、会社はその中から社員旅行の積み立てを取る。
 風邪をひいて旅行に行けなかったとき、あとで積み立て分を返してくれと言いに行ったが、返してはもらえなかった。文句を言って仕事がしづらくなるのもイヤだから、結局泣き寝入りだ。

 ショッピングセンターや事務所ビルの掃除をやって、捨ててある雑誌や衣類や靴を拾うことは許されている。ほんとうは許されているのかどうか知らないが、とにかくみんな当たり前のように拾って持って帰っている。
 ゴミ箱に入っているものは明らかに捨てられたものだが、ベンチの下などに置かれているのは忘れ物か落とし物だ。そういうのは届けることもあるし、届けないこともある。ほしいものだったら、まず届けない。みんながそうしているんだし、芳賀がやって悪いという理屈はない。

 河村のオヤジさんなんかは、財布を拾うと中からカネだけ抜いて届ける。ときには、20万ぐらい入っている財布を拾うことだってあるのだ。だからそれが1200万だって、同じことだろう。河村のオヤジさんが許されて、こっちだけ許されないなんて話はない。

 1200万か――。

 芳賀は、肩の上で首をコキコキと回した。
 なんとなく右に目をやると、若い女は相変わらず壁にもたれて手紙を読んでいた。よっぽど深刻な内容の手紙なのか、じっと見つめたまま、ときどき顔をしかめたりしている。

 ああいう女の子は……と、芳賀は視線を前へ戻しながら思った。
 あんな子は、いくらぐらい出すと遊んでくれるのだろう?
 雑誌なんかで読むと、今の若い女の子たちは簡単にお金で寝るらしい。援助交際だっけ?
 しかし、不思議なのは、いままで一人もそんな女の子を援助しているというヤツに出会わないということだ。週刊誌の記事だと、高校生や女子大生は、ほとんどがそういうことをしているように思える。でも、実際はそんな女の子がいると聞いたこともないし、そういう女の子とつきあっているという男に出会ったこともない。

 女房と死に別れてから、芳賀は20年あまり女性との関わりを持っていなかった。女性に限らず、もともとあまり人づきあいは得意ではない。酒も一人で飲むほうがいいし、女のいる店などにはまず行ったことがない。行き方もよくわからなかった。
 ソープだとか、そういうところに行く男たちも多いようだが、芳賀はそんな経験も持っていない。さほど行きたいとも思わなかった。

 でも……と、芳賀は、また壁にもたれて手紙を読んでいる女の子に目をやった。
 べつに援助交際とか、そういうことじゃなくていいから、ああいう女の子と親しくなれたら、少しは世の中も違って見えるだろうか?
 たとえば、今、あの子が読んでいる手紙を、100万円で譲ってくれないかと言ったら、彼女はどんな顔をするだろう?

 不意に、女の子がうなずき、芳賀のほうへ顔を上げた。
 ギクリとして、芳賀は目を前方へ戻した。視界の端で、彼女が離れて行くのが感じられた。
 なにをしたわけでもなかったが、どこか後ろめたいような気分になった。


    若い女

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