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 24:01 赤坂見附駅
 有馬直人
(ありま なおと)


     電車は、24時1分発の浅草行だった。
 その発車を見送り、有馬はページに目を返した。

 ――はい。
「あ、オレだけど」
 ――ああ、どうした? 彼女と話はついたのか?
「いや……」美代子を見た。「ちょっと、ややこしいことになってる」
 ――ややこしい? きっぱり別れるって言うんじゃなかったのか。

「ちょっと聞きたいんだが、瞬間接着剤の剥がし方を知らないか?」
 ――なんだ?
「接着剤だよ。瞬間接着剤」
 ――なんの話だよ。彼女のことじゃないのか。
「緊急なんだ。間違ってくっつけた瞬間接着剤を剥がすには、どうしたらいいんだ?」
 ――なにをくっつけたって言うの?
「いや……その、皮膚なんだけど」

 ――皮膚? お前、指を接着しちまったの?
「まあ……そんなとこだ。どうしたらいい?」
 ――さあてな。お湯で洗うとか。
「やった。だめだった」
 ――シンナーで溶けるかなあ。いや、けっこう大変なんだぜ、瞬間接着剤ってのは。
「シンナーか……」
 ――たしか、剥離剤みたいなのも、あったんじゃないかな……ちょっと待て、今、百科事典を見てみる。何か方法が書いてあるかもしれない。
「…………」
 ――せ、せ、せ、と。せつこ、せつさ、せつた……おお、接着剤。これだ。ええと。ああ、これだな。瞬間接着剤。これメチルシアノアクリレート接着剤って言うんだってさ。

「メチルシアノ――」
 ぼくは美代子を見た。そんな名前を、美代子が口にしたのを思い出した。
 ――アメリカのイーストマン・コダック社から瞬間接着剤として発売され、世界的なセンセーションを巻き起こした接着剤である、か。自体は単量体の粘稠性液体であるが……なんのことかさっぱりわからんな。であるが、空中の水分を吸収し瞬間的に重合し強力な接着力を示す。鉄、軽金属、ガラス、ゴム、プラスチックなどに対しては現在最も強い接着剤とされている。ふうん。

「それで?」
 ――それだけだ。
「それだけ?」
 ――ああ。それしか書いてない。あ、溶剤の表がある。溶剤ってのは、溶かすもんだよな。それがわかれば、瞬間接着剤を溶かすことができるわけだ。
「なんて書いてあるんだよ!」
 イライラしてきた。
 ――まあ、慌てるな。ええと、あれ? だめだ、こりゃ。
「だめ? なにが、だめだ」
 ――いや、溶剤が書いてない。他の接着剤のところには、水だとか、ガソリンだとか、アルコールだとか書いてあるけど、瞬間接着剤のところには溶剤がない。

「……ない?」
 ――ああ。ただ、どこかに瞬間接着剤用の剥離剤もあるんじゃないかと思うんだけど。あのさ、一番いいのは、病院に行くことじゃないかな。近くの病院に駆け込んでさ、くっついた指、剥がしてもらえよ。それが一番いいぜ。たぶん、お前だけじゃなくて、年に何人かはそういうドジなヤツがいるんじゃないかと思うからさ。あ、おい……。
 そのまま電話を切った。

「瞬間接着剤、か」
 有馬は、小さくつぶやいた。
 左に目をやると、先細りした浅草寄りの最先端で、いつからそこにいたのかサラリーマン風の若い男が屈伸運動のようなことをやっていた。


    サラリーマン風の
若い男

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