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 24:04 上野広小路-末広町駅
 芳賀喜智
 (はが よしとも)


    「な、なにか……」

 問いかけた言葉が、喉のどこかに引っかかった。
 は、ゆっくりと芳賀に目を向けてきた。感情のほとんど欠如したような視線を、芳賀の胸から頭まで、すくい上げるようにして送ってくる。一瞬背筋に粟が立った。そして、男は、自分の顔の前へ拳を上げ、長い舌を出してその拳をペロリと舐めあげた。

「…………」

 どういうつもりなのか、舐めた拳で自分の耳の後ろをなで上げ、男は、ゆっくりと口を開いた。

「が、がんが」

 何を言われたのかわからず、芳賀はごくりと唾を呑み込んだ。
 人間が発した声のようには聞こえなかった。しゃがれた低い声は、まるで獣のうなり声のようだった。

「なにか……ご用でしょうか」

 恐怖心と必死で闘いながら、芳賀はもう一度訊いた。
 弱みをみせてはいけないと、自分に言い聞かせる。もし、こいつが組織の人間であるなら、弱みをみせちゃいけない。関係ないのだから。1200万円の入った紙袋など知らないし、それがトイレの便器の後ろに隠してあったことも知らない。関係ないのだ。弱みをみせちゃだめだ。

「がにた、おぎょうげぎぁうが」

 再び、男がうなるように言った。
 そして、ぶるんぶるんと、大きく首を横に振った。
 思わず芳賀は身体をのけぞらせた。

 脅されていることだけは確かだった。
 しかし、男の言葉がまるでわからない。日本語ではないようにも思える。日本語以外の言語を、芳賀は知らなかった。英語なのか、ロシア語なのか、あるいはアフリカのどこかの言葉なのか――芳賀の耳には、男の言葉は、ほとんどうなり声にしか聞こえない。

「ぎぢがうげ」

 また、男が言った。
 わけもわからず、芳賀は首を振った。
 声は出なかった。声は出ず、身体も動かない。

「まもなく末広町、末広町です」

 車内のアナウンスが、次の停車駅を告げた。
 降りよう、と芳賀は思った。
 シートから腰を上げようとする。
「…………」
 しかし、どういうわけか、まるで足が言うことをきかない。まるで、金縛りにでもあったような感じだった。

 いきなり、男の拳が目の前に突き出されて、芳賀は息を呑み込んだ。

「ぎちがうげ」

 うなるように言いながら、男は拳で芳賀の胸を押した。

「…………」

 なんだか、生きた心地がしない。
 誰かに助けを求めたい。しかし、身体は動かず、目は男から離せなくなっていた。
 男が、また、芳賀の胸を拳で押した。

「ぎぢがうげ」
 続いて、その拳を、今度は男自身の胸に当てた。
「ぐぜぐぐぜず」

 芳賀は、また首を振った。
 助けて、くれ。

 窓の外が明るくなった。
 末広町――。
 駅に着いた。

 降りたい、と芳賀は思った。
 お願いだ、誰か、助けてくれ……。

 ドアが開き、乗り込んできた乗客の1人が芳賀の左側に腰を下ろした。男の顔からむりやり視線を外し、左を振り返ると恰幅のいい中年男が座っていた。
 その中年男が、不思議そうな表情で芳賀を見返した。
 

    恰幅のいい中年男

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