前の時刻 次の時刻

  

 24:04 上野広小路駅-末広町駅
 クセルクセス


    「な、なにか」

 と、突然イチバンセンが言った。
 ボクに言ってくれたんだろうか……と、クセルクセスは考えた。

 自分に言ってくれているように思えても、人間は、時々〈電話〉に話をしているときがあるということを、クセルクセスは知っていた。
 由美子さんの言葉に返事をして、彼はよく笑われた。
「あんたに言ったんじゃないの。電話とお話ししてるのよ。ばかねえ」
 間違えると笑われてしまうのだ。

 だから、クセルクセスはゆっくりとイチバンセンの顔を見上げた。
 自分に言ってくれた言葉なのかどうか、ちゃんと確かめてから返事をすべきだ。

 違う。イチバンセンは電話を持ってない。
 それにイチバンセンは、じっとクセルクセスのことを見つめてくれている。

 ボクに言ったんだ!

 嬉しくなった。
 尻尾をあげようとしたが、今のクセルクセスに尻尾はなかった。
 自分を落ち着かせるために、クセルクセスは顔を洗うことにした。毛は生えていないが、手を舐め、その手で耳の後ろを洗う。
 ほんのちょっと気持ちが穏やかになった。

 な、なにか――とイチバンセンは言った。
 それがどういう意味なのか、よくわからなかった。だから、彼は、イチバンセンの真似をして同じ言葉を言ってみた。

「な、なにか」

 ちょっと、違うような気がした。
 どうも、うまく人間の言葉を発音できない。

「なにか、ご用でしょうか」

 もう一度、イチバンセンが話しかけてきた。
 クセルクセスは、とても嬉しかった。

「なにか、ごようでしょうか」
 言い返してみる。
 今度は、前の時より、ずっとうまく発音できた。
 嬉しさに、クセルクセスは身体をふるわせた。
 練習すれば、上手に話せるようになる。由美子さんや、イチバンセンと同じように、上手に言葉が話せるようになるに違いない。

「イチバンセン」

 嬉しかったから、クセルクセスは、イチバンセンの名前を呼んでみた。
 でも、あまり上手じゃなかったみたいで、イチバンセンは、ちがう、と言うように首を振った。

「まもなく末広町、末広町です」

 また、テレビのような声がした。
 そのとたんに、クセルクセスは昔のことを思い出した。由美子さんと一番最初に会ったとき、彼女は自分の胸を押さえて「由美子。あたし、由美子」と言った。そしてクセルクセスの頭を撫でながら「あなたは、クセルクセスよ。クセルクセス」と教えてくれた。

 うん、とクセルクセスはうなずいた。
 イチバンセンの胸を押して、もう一度言う。

「イチバンセン」
 そして、今度は自分の胸を押さえながら言った。
「クセルクセス」

 ところが、イチバンセンは、やっぱり首を振った。

「…………」

 うまく発音できてないんだろうか?
 だって、どうやって声を出したらいいのか、まだよくわからないんだもの。

 電車が停まり、シューッ、と音を立ててドアが開いた。
 イチバンセンは、クセルクセスから顔を背けるようにして向こうをむいてしまった。

 クセルクセスは、また、ほんの少し悲しくなった。
 

    イチバンセン

   前の時刻 次の時刻