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 24:05 末広町駅-神田
 日下部敏郎
(くさかべ としろう)


     ひとみは、その美しい顔をいっそう輝かせるような笑みを浮かべたまま言葉をつないだ。
「とにかく、そういう、カラオケってのがあるのよ」

 ちょうどそのとき、地下鉄の扉が閉じられた。
 走行の時間も短いが、駅での停車時間も極めて短かった。
 おそらく、この時代の人々は、日下部の想像を絶するような速度で毎日を送っているのだろう。まったく目が廻りそうだ、と日下部は思った。

「すみません。話を中断させてしまいました」
 無礼を詫びると、ひとみは首をひと振りしてそれに応えた。
「友達と一緒に騒いで、遊んだの。お酒を飲んで、歌って、気にくわない上司の悪口を言い合ったり、誰々と誰々は怪しいとか、そんな話して盛り上がったわけ」
「…………」

 またもや、ひとみの言葉が理解できなかった。

「怪しい……?」
 訊き返すと、ひとみはまた首を振る。
「あ、違うの、違うの。怪しいって言っても、犯罪者かなんかだっていうんじゃなくて、あの男、誰々に――って、女の子ね。あの男とあの女、付き合ってるんじゃないかとか、そういうこと」
「…………」

 懇切丁寧に説明してくれたものだとは思うが、日下部にはやはり理解できなかった。
 あの男とあの女が、付き合ってるんじゃないか?
 それは、どのような状況を説明してくれたのだろう? まさか夫婦であるという意味ではあるまい。祝言を上げたものであれば、それは周知のことである筈だ。それを、怪しむ?

「ごめんなさい。言ってること、わかりづらい?」
 ひとみに言われ、日下部は自分の頭を押さえた。
「あなたが謝られることはありません。ただ、同じ日本語であるはずが、まるで理解できない箇所がありまして」
 言葉だけではなく、行動自体が理解できないということは、あえて口に出さなかった。

 ひとみは、笑うときにも口許を隠さない。それどころか大きな声を上げて、武者のように笑う。言葉遣いも、まるで男子のようだ。そうであることが、おそらくこの時代では奇異なことではないのだろう。
 女が、男と対等に話をしている時代なのだから、むろん、その関係もずいぶんと変化しているに違いない。
 日下部には理解できないが、それは、このひとみの落ち度である筈がなかった。

「そうねえ。あたしのほうも、ときどき日下部さんの言ってることわかりづらいことがあるし」
「申し訳ありません」
 逆に、日下部が詫びた。
 郷に入りては郷に従う――ここでは、日下部自身が異郷の者なのだ。

「でも、きっと」とひとみはうなずきながら言う。「日下部さんだって、江戸時代とかもっと前の平安時代とかの人と話したら、まるっきり通じないと思うな」
 言われて、日下部はうなずいた。
「なるほど、その通りですね。殊に、昨今は」と言いかけ、誤りに気づいて言い直した。「いや、私のいた時分の日本では、西洋からの新しい言葉が次々と現われまして、かなり言葉が乱れてきておりましたから」

「へえ、日下部さんの時代も、日本語が乱れているって言われてたの?」
 眼を見開くようにして、ひとみが訊いた。
「はい。その乱れ様を、年輩の方々は嘆いておられました」
「おんなじだわ」
「……おんなじ?」
「うん。今もそう。若い人の使う言葉が乱れてる、けしからん、って言う大人、たくさんいるもの」
「なるほど」と、日下部は、ひとみの言葉に半ば驚嘆しながら言った。「言葉とは、移ろうものなのですね」

 その通りなのかもしれない、と日下部は感じ入った。
 言葉とは、常に変化し、移ろいゆくものなのだろう。

 あ、と日下部は、気づいてひとみを見返した。
「いや、申し訳ない。またお話の邪魔をいたしました」
 ひとみは、クスリ、と笑った。
 その笑顔が、ゆっくりと困惑の表情に変化した。

「うん……でも、そのあたりからあやふやなの」
「あやふや……?」
「うん。友だち4人とカラオケボックスを出て……そこまでは確かなのよね」
 そのひとみの言葉は、まるで自分に言い聞かせているような響きを持っていた。

 日下部は、美しいひとみの横顔を眺めながら、次の言葉を待った。
 ひとみの考えを遮ってはならないような気持ちがしていたからだ。

 あ……と、不意に、ひとみが日下部を見返した。


    ひとみ

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