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 24:05 末広町駅-神田
 榎本ひとみ
(えのもと ひとみ)


     「とにかく」とひとみは笑いながら言った。「そういう、カラオケってのがあるのよ」

 日下部が笑いの残った顔でうなずいた。
「すみません。話を中断させてしまいました」
 ううん、とひとみは首を振った。
「友だちと一緒に騒いで、遊んだの。お酒を飲んで、歌って、気にくわない上司の悪口を言い合ったり、誰々と誰々はあやしいとか、そんな話して盛り上がったわけ」

「怪しい……?」
 日下部が、眉をひそめるようにして、ひとみの顔を覗き込んだ。
 ひとみは、慌てて首を振った。
「あ、ちがうの、ちがうの。あやしいって言っても、犯罪者かなんかだっていうんじゃなくて、あの男、誰々に――って、女の子ね。あの男とあの女、付き合ってるんじゃないかとか、そういうこと」
「…………」
 日下部が眼を瞬いた。

「ごめんなさい。言ってること、わかりづらい?」
 日下部は、頭に手をやった。
「あなたが謝られることはありません。ただ、同じ日本語であるはずが、まるで理解できない箇所がありまして」
 ひとみはうなずいた。
「そうねえ。あたしのほうも、ときどき日下部さんの言ってることわかりづらいことがあるし」
「申し訳ありません」

「でも、きっと、日下部さんだって、江戸時代とかもっと前の平安時代とかの人と話したら、まるっきり通じないと思うな」
「なるほど、その通りですね。ことに、昨今は――いや、私のいた時分の日本では、西洋からの新しい言葉が次々と現われまして、かなり言葉が乱れてきておりましたから」
「へえ」とひとみは、日下部を見返した。「日下部さんの時代も、日本語が乱れているって言われてたの?」
 はい、と日下部がうなずいた。

「その乱れようを、年輩の方々は嘆いておられました」
「おんなじだわ」
「おんなじ?」
「うん。今もそう。若い人の使う言葉が乱れてる、けしからん、って言う大人、たくさんいるもの」
「なるほど……言葉とは、移ろうものなのですね」

 感心したように、日下部は首を振った。
 あ、とひとみを見返した。

「いや、申し訳ない。またお話の邪魔をいたしました」
 クスッ、とひとみは笑った。
「うん。でも、そのあたりからあやふやなの」
「あやふや……?」

 うん、とひとみはうなずいた。
 ほんとに、まるっきり記憶があやふやなのだ。カラオケで歌っていたのは覚えている。しかし、その後がよくわからない。

「友だち4人とカラオケボックスを出て……そこまでは確かなのよね」

 ほとんど独り言のようにつぶやいた。
 他の3人はタクシーで相乗りして帰ると言い、ひとみだけは方向が逆だったから地下鉄で帰ることにした。
 だが、そのあと――。

 どうしたんだろう?

「かわいそーだよー」
 と、片桐千絵の声が耳に残っている。
「榎本だけ1人で帰らせんの? そういうこと、しんゆーに対してできないなあ、あたし」
「いいの、いいの」
 と、笑いながらひとみは3人に手を振った。
「どーせ、あたしは、いつもひとりぽっちなんだよーぉ」

 そして、道路を渡って――いや、そのとき、誰かが後ろで叫んだ。

 ひとみは、首を傾げた。
 あれは、誰だろう?
 誰かの声が、あたしの名前を呼んだ……。

「榎本!」

 あ。
 と、ひとみは、日下部を見返した。


 
    日下部敏郎

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