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 24:05 末広町駅-神田
 溝江絢子
(みぞえ じゅんこ)


     次が神田……。

 電車が動き始めたとき、絢子は口の中でつぶやいた。
 なんとかしなくてはと思うのだが、どうしたらいいのか、その算段はまるでつかなかった。
 まるで、電車が断崖に向かって走り続けているような気持ちがした。もう、数分も経たぬうちに車両ごと崖下へ墜落するような。

 いや、ほんとうにそうなら……と絢子は思った。
 本当に、神田に着く前にこの電車が崖から墜落してくれればいい。それで何もかも終わりになるのなら、むしろそのほうがどれだけいいだろう。
 一人で病院へ行き、死期を間際に控えた義父と義母の前に立つことなど耐えられなかった。そして、その間、賢三は恭三と話をしている……。

「会っているのか」

 突然、賢三が言った。
 何を言われたのか、とっさに判断がつかなかった。

「恭三と会っているのか」
 賢三がまた言った。
「…………」
 絢子は、夫のほうへ目を向けた。

「つまり、そういうことなんだな」
 賢三は言い、絢子をひと睨みすると硬い表情のまま正面を向いた。

 だったら、なんだと言うの?
 絢子は胸の中で賢三に問いかけた。
 まさか、あなたが嫉妬するわけはないし、ようするにまた世間体?
 許さない、とでも言うつもりなの?
 そんな権利は、あなたにはない。それは、ちゃんとした夫が言うことだ。愛情など、ひとかけらもない――ただ父親の世間体を守るために結婚の形を作り、自分の弟を息子だと偽るような人に、許さないなどと言う権利はない。

 絢子は、賢三の横顔を見つめていた。

「…………」

 ふと、賢三の耳に目がいった。
 その耳の形が、恭三のそれとそっくりだったことに、絢子は今になって気がついた。
 そして、自分が、結婚して23年間、ほとんど賢三の顔をまともに見ていなかったことにも、はじめて気がついた。
 恭三は大きな耳たぶを持っている。その耳たぶを、絢子は何度も唇の間にくわえた。柔らかくて、まるで牛皮餅のような感触を持った耳たぶ――。
 その恭三とそっくりな耳が、賢三にもついていた。
 その耳を見つめているうちに、悲しい思いがこみ上げてきた。

「恭三は、親父の息子なんだよ」不意に、前を向いたままで賢三が言った。「お前と恭三が続いているとか、そういうことは関係ない」
「…………」
「16年経とうが、あいつが親父の息子であることは変わらないんだ。恭三は家を出て行ったが、勘当されたわけではない。お前が何を考えようが、親と子の絆は切れてしまったわけじゃない。あいつは溝江の人間なんだ。反撥はあるだろう。16年で消えるものじゃないかもしれない。だがね、親父はもう、数日の命なんだ」

 絢子は、首を振り、小さく息を吸い込んだ。

「それが、原因だということが、まだあなたにはわからないんですか」
「なに?」
 賢三が、絢子に目を返してきた。
「恭三さんが家を出たのは、なによりも、そのあなたの言う絆なんですよ。溝江の家。お義父さんも、お義母さんも、あなたも、なによりも《家》が先にくる。人の気持ちとか、意志とかより、いつも《家》が優先されるんですよ」

 賢三は、黙ったまま睨むように絢子を見ていた。

「あなた自身だってそうでしょう。《家》の絆のために会社を継ぎ、《家》の絆のためにあたしと結婚させられ、《家》の絆のために親の子供を自分の子供として認知させられた。あなた自身の意志がどこにあるんですか。もちろん、あなたはそれでいいんでしょう。それでずっと生きてきたんですから。でも、恭三さんも、彰男も、あたしも、あなたのような生き方はできない。あなたやお義父さんやお義母さんのような考え方はできないんです。それが、どうしてわからないんですか」

 言っているうちに、絢子の胸の中に覚悟に似たものが現われた。
 賢三は、どうあっても恭三のところへ行くだろう。もう、それを止める手だてはない。
 それなら、対決するまでだ。恭三と一緒に、賢三と対決する。
 後がどうなるかわからない。もしかしたら、それで恭三との関係が終わってしまうのかもしれない。そうなってほしくはないけれど、いつまでも運命にいたぶられているのはこりごりだ。せめて、自分の運命が変わるその瞬間に立ち会うことにしよう。
 絢子は、小さくうなずいた。

「いいわ。じゃあ、あたしも一緒に恭三さんのところへ行きます」
 眼を見開くようにして、賢三が絢子を見つめた。

「お前は、先に病院へ行くんだ」
 いいえ、と絢子は首を振った。
「あなたが行かないのなら、あたしも行きません」


    賢三

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