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 24:05 末広町駅-神田
 溝江賢三
(みぞえ けんぞう)


     賢三は、絢子を見つめた。
 ドアが閉まり、電車が動き出した。

 絢子は、膝のバッグの口を握りしめるようにして、その目を俯かせていた。頬が青白く見えた。その頬に、後れ毛が数本かかっている。

 そうか……。
 と、賢三は絢子の顔を見つめたまま思った。
 そういうことか。

「会っているのか」

 低く言った。
 絢子は何も答えなかった。黙ったまま、握りしめたバッグを見ている。
「恭三と会っているのか」
 もう一度、賢三は訊いた。

 ゆっくりと、絢子が顔をこちらへ向けてきた。
「つまり、そういうことなんだな」
 絢子はやはり何も言わなかった。しかし、それで賢三にはすべてが理解できた。
 賢三は、絢子から目をそらせ、正面へ視線を戻した。正面のシートに座っている男と目があった。賢三は、視線の先を窓へ移し、その向こうを流れる黒い壁を眺めた。

 この女が、溝江家のすべてを破壊した。
 そして、今も、こいつはそれを続けているのだ。
 この女のために、恭三は溝江の家を出た。もちろん、それは恭三自身の意志によるものだが、彼をそう仕向けたのはこの女だ。

 恭三を病院へ連れて行く言ったとき、絢子は、電話で知らせればいい、と言った。電話で話せるようなことではないと言うと、じゃああたしが電話する、と受話器を取り上げた。
 賢三を少しでも早く病院へ行かせようとしているのだと、あのときは思った。親父が呼んでいる。その親父はいつ死んでもおかしくない。だから、恭三を迎えに行っている余裕などない。そういう意味だと思っていた。
 そうではなかったのだ。

 絢子は、恭三と俺を会わせたくなかったのだ。
 俺と恭三が話をするのを阻止したかったのだ。
 そういうことなのだ。

「恭三は、親父の息子なんだよ」
 絢子の睨みつける視線を頬に感じながら、賢三は言った。
 絢子は、黙っていた。
「お前と恭三が続いているとか、そういうことは関係ない。16年経とうが、あいつが親父の息子であることは変わらないんだ。恭三は家を出て行ったが、勘当されたわけではない。お前が何を考えようが、親と子の絆は切れてしまったわけじゃない。あいつは溝江の人間なんだ。反撥はあるだろう。16年で消えるものじゃないかもしれない。だがね、親父はもう、数日の命なんだ」

「それが、原因だということが、まだあなたにはわからないんですか」
 絢子が言い、賢三は彼女を見返した。

「なに?」
「恭三さんが家を出たのは、なによりも、そのあなたの言う絆なんですよ」
「…………」
「溝江の家。お義父さんも、お義母さんも、あなたも、なによりも《家》が先にくる。人の気持ちとか、意志とかより、いつも《家》が優先されるんですよ。あなた自身だってそうでしょう。《家》の絆のために会社を継ぎ、《家》の絆のためにあたしと結婚させられ、《家》の絆のために親の子供を自分の子供として認知させられた。あなた自身の意志がどこにあるんですか。もちろん、あなたはそれでいいんでしょう。それでずっと生きてきたんですから。でも、恭三さんも、彰男も、あたしも、あなたのような生き方はできない。あなたやお義父さんやお義母さんのような考え方はできないんです。それが、どうしてわからないんですか」

 怒鳴りつけたい気持ちを、賢三は抑えた。
 お前に、何がわかるか。
 怒鳴る代りに首を振った。

「いいわ」
 と、絢子が言った。
「じゃあ、あたしも一緒に恭三さんのところへ行きます」
「お前は、先に病院へ行くんだ」

 絢子が首を振った。
「あなたが行かないのなら、あたしも行きません」


    絢子 正面のシートに
座っている男

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