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 24:05 末広町駅-神田
 龍造寺公哉
 (りゅうぞうじ きみや)


     ――助けてください、助けてください、なんて言ったって、誰も助けてなんかくれないんだよな。

 龍造寺には、が絶望感に全身を打ち震わせているのが見て取れた。
 それとともに、龍造寺の心にも、深く重い悲しみが拡がっていく。

 ――わかってるんだよ。オレだって、みんなが自分のことで精一杯だってことぐらい、ちゃんとわかってる。
 ――だけど、どこかに一人ぐらい、助けてくれる人がいたってよさそうなものじゃないか。1日5ミリなんだぜ。毎日毎日、かっきり5ミリずつなんだから。

 5ミリ……。
 龍造寺は、男の心に意識を集中した。
 1日5ミリとは、なんだろう?

 ――ちゃんと計ったんだ。そのために文房具屋へ行って、定規も買ったんだから。それも、500円の上等なヤツだ。100円均一で売ってるようなちゃちな定規じゃない。分厚いプラスチックでさ、目盛りだってくっきりと読めるヤツなんだから。
 ――毎日計ってる。方眼紙にグラフだって書いてる。毎日かっきり5ミリっていうのは、そのグラフが完全に直線だからね。〈y=5x〉というヤツだ。もう、参っちゃうじゃないか。どうにかしてほしいよ、まったく。

 男の考えていることが、龍造寺にはどうにもわからなかった。
〈y=5x〉だって?
 そりゃ、なんのことだ。

 ――信じられないよな。誰に言っても信じてくれない。自分の家が、1日に5ミリずつ持ち上がってるなんてさ、誰も信じてくれない。ひでえ、話しだよ。

 家が……持ち上がる?

 ――区役所に行ったら、沈んでるんじゃないんですか? なんて言いやがった。埋め立て地の新築の家なんかだと、地盤が弱くて少しずつ沈んだりするケースもあるらしい。
 ――だけど、オレの家は坂の上に建ってるんだ。埋め立て地であるわけがないだろ。それに沈むんじゃない。持ち上がってるんだ。空に向かって伸びてるの。そう、タケノコみたいに。1日に5ミリずつ。ひどいもんだよな。
 ――ところが、両隣の家は持ち上がってないらしいし、裏の家もそんなことはないって言ってた。笑ってるんだぜ。人が必死になって訴えてるのに、笑いながらそれはあんたの思い込みだって言いやがった。

 そんなことが、あるものなのだろうか、と龍造寺は首を傾げた。
 いや、地盤沈下があるのだから、地盤隆起があってもおかしくはない。ただ、周囲の家は変化がないのに、この男の家だけが……。
 もう一度、龍造寺は首をひねった。

 ――不動産屋は、言いがかりをつけるのかと逆にすごんで見せるし、建築なんとか協会というところは、そういうものは当協会では扱っていませんと冷たく突き放した。
 ――くそお、どうすりゃいいんだよ。だって、1日5ミリなんだぜ。10日で5センチだ。1ヶ月で15センチ。1年経ったら180センチ……2メートル近くも持ち上がっちゃうじゃないか。そうなったら、玄関から家の中に入ることだってできなくなっちまう。いったい、どこに梯子使って玄関によじ登る家があるっていうんだ。だいたい、間違って勝手口から外に出ようとして、道路に落っこちて怪我したらどうすんだよ。
 ――頼むよ。誰か助けてくれよ。

 男は、ブルブルと震えているようだった。
 その男の様子からすれば、確かに彼は真剣に悩んでいるらしい。
 しかし、龍造寺には、男の抱えている問題をそのまま信じられなくなっていた。

 ――たぶん、これは超自然の力なんだよな。なにか、得体の知れない、魔力とか呪いとか。あるいは、ポルターガイストみたいなものかもしれない。オレ、映画で見たもの。ポルターガイストのせいで、家がぺしゃんこになって地面にめり込んじゃうんだ。おっかねえよなあ。そういう力があるんだから、持ち上げる力だってあるさ。
 ――だから、今日だって、祈祷師の先生のところに相談に行ったんじゃないか。そしたら、1回の祈祷で30万円だって言うんだぜ。それで、まあ、1回で効き目があるんだったらいいよ。30万は高いけど、1年後に梯子使って家によじ登ることを考えれば、それもいいかもしれない。ところがさ、あの先生の代理の巫女さん、1回で効き目があるかどうかは、実際に祈祷を行なってみなければわかりません、だって。
 ――じゃあ、2回? と訊くと、それもわからないって言うじゃないか。あの、これは確実だって、見積もりだけでもいただけませんかって訊いたら、とにかく、一度伺って拝見しましょう。それからでないと判断しかねます。見ていただくには……いくら? では、特別に20万円で見て進ぜます。
 ――冗談じゃないよ。

 男は、気が抜けたように溜息をついた。
 つい、龍造寺も一緒に溜息をついていた。


   

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