![]() | 24:05 末広町駅-神田 |
芳賀は、1200万など、もうどうでもいいと思った。 あのカネはいらない。どうせ、拾ったものだし、まだ1円だって使っていない。だから、もう、こんな怖い思いはさせないでくれ。 しかし、それを隣の男に言う勇気もなく、電車を降りる度胸もないままに、無情にもドアが閉まった。電車は走り始め、そのガタンガタンという響きと同調するようにして、芳賀の心臓もバクバクと喉元を突き上げた。 右の男へ目を向けることなどできなかった。 見なくても、男の顔が網膜に焼きついている。男の声も鼓膜にへばりついている。 ぞっとするような表情のない眼。獣のうなり声のような低いダミ声。 きっと、この男は、組織から送られてきたのだ。芳賀に脅しをかけるために、組織がこの男を差し向けたのだ。おそらく、こいつは脅しのプロなのだろう。相手が一番恐れる方法を熟知している。もっとも効果的な方法で、確実に脅しをかけるプロ。 そう。 この男が、上野広小路のホームで後ろに立ったのを、芳賀はまるで気づかなかった。男だって改札を通ってきたことは間違いない筈なのに、芳賀は男の存在を、あの一瞬まで知覚できなかった。 きっと、こいつは、ずっと後をつけていたのだ。芳賀の行動を観察していたに違いない。ずっと、監視されていたのだ。 ずっと……? いつから? そこに思い至って、芳賀はあらためてぞっとした。 もしかしたら、3日前から監視されていたのではないだろうか? あのトイレで1200万の入った紙袋を見つけたときから、ずっとこの男は芳賀の後ろに立っていたのではないだろうか? 芳賀は唾を呑み込んだ……いや、呑み込もうとした。しかし、唾液が妙なところに引っかかり、呑み込むことはできなかった。その苦しさに、芳賀は眼を白黒させた。 だとすると、何もかも知られていることになる。 芳賀のアパートも、もちろん紙袋を隠した押し入れも。 なんてことだ。 あんな紙袋など拾わなければよかった。いや、拾っても、すぐに届けるべきだった。 魔がさしたのだ。ほんの一瞬、自分を見失ってしまっただけなのだ。みんなが拾っているのだから、自分だって拾っていいと思ってしまった。 どうなるのだろう。 この男は、どうしようというのだろう――。 隣の男が突然立ち上がって、芳賀は思わず声を上げそうになった。 どうするのだ? 首を絞められるのか? 殴られるのか? 芳賀は、ギュッと眼を閉じた。 「…………」 なにも起こらなかった。 恐る恐る眼を開けると、隣から男の姿が消えていた。 あれ……? 芳賀は顔を上げ、車内を見渡した。 後部座席に向かって歩いて行く男の姿が見えた。 男は、ゆっくりと足を進め、斜め向こうのシートに腰を下ろした。その男の隣には、茶髪の男の子が座っていた。 どうなったんだろう……? 狐につままれたような気持ちで、芳賀は向こうへ席を移した男を見つめた。 男と茶髪の少年は、なにか話をしているようだった。 勘違い? 組織の人間ではなかったのか……。 芳賀は、胸に溜めていた息を吐き出した。グッタリとした疲れが、喉元から足のほうへ降りていった。 思わず、芳賀は首筋に手をやった。 それで、芳賀は、ぐっしょりと全身が汗まみれになっていたことに気づいた。 |
![]() | 隣の男 | ![]() | 茶髪の男の子 |