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 24:05 末広町駅-神田
 クセルクセス


     ボクのことが嫌いなんだ……。

 溜息をつきながら、クセルクセスはイチバンセンから目をそらせた。電車の中をぐるりと見渡す。
 ちょうどそのとき、ドアが閉まり電車が走り始めた。

 正面にいる男の人が、クセルクセスを睨みつけていた。クセルクセスと目があって、すぐに男の人はその視線をそらせた。
 ほんの少し怖くなったが、飛びかかってくるようには見えなかった。青い箱を膝の上へ載せている。なぜかわからないけれど、男の人よりも、その青い箱のほうが怖かった。男の人は、汗の臭いをプンプンさせている。その臭いは、逃げようとしているときの人間の臭いだった。

 この人には、飼ってほしくない……と、クセルクセスは思った。

 お腹が空いている。食べるものがほしかった。イチバンセンがだめなら、誰か別の人に飼ってもらわなきゃならない。
 できれば、冷めたお味噌汁をかけたご飯がいいのだけれど、缶詰でもいいし、カリカリだってかまわない。アジの干物の骨があればもっと素敵だ。
 考えているうちに口の中によだれが溜まってきた。
 クセルクセスは、手の甲を舐め、ほっぺたをゴシゴシとこすった。

 青い箱の男の人の向こう側には、本を読んでいるオバサンが座っていた。なんだか、ずいぶん小さな本だった。
 よっぽどつまらない本なのだろう。怒ったような顔をして読んでいる。
 由美子さんは、いつだってすごく楽しそうに本を読んでいた。声を上げて笑いながら読んでいることもあった。
 あのオバサンは、まるで笑わなかった。
 だったら、読まなければいいのに、とクセルクセスは思った。

 オバサンが座っているずっと向こうに、首を振って楽しそうにしているお兄さんがいるのに、クセルクセスは気がついた。
 口を動かしているから何か言ってるようだが、いくら耳をそばだてても、言葉はまるで聞こえなかった。電車の音がうるさすぎて、邪魔で仕方がない。

 ふと、そのお兄さんが、クセルクセスのほうを見た。
 目があったとたんにお兄さんの口の動きが止まり、口の代りに眼をパタパタと開け閉めした。

「…………」

 なんだろうと思って見ていると、お兄さんは、また口を動かして何か言い始めた。頭を前後に振りながら、こちらに向かって話しかけている。でも、その言葉が、クセルクセスにはまるで聞き取れなかった。

 ボクに言ってるんだろうか……。

 見たところ、悪い人ではなさそうだった。
 髪の色は、公園でいつも出会うチャコという美猫に似ている。一度むこうがその気になったようだったから、乗っかろうとしたら近所の悪ガキがきて石をぶつけられた。
 しきりに首を振り、身体全体も細かく動かして、なにかしきりに言っている。

 クセルクセスは戸惑った。
 求愛されてるんだろうか? なんだか、そんな感じがする。
 でも、ボクはオスだし、あのお兄さんだって人間のオスだ。第一、今は愛の季節じゃない。
 困ったな、とクセルクセスは思った。

 人間には、なったばかりで、人間流の恋の仕方とか、乗っかり方はよくわからないのだ。たとえ、あのお兄さんがメスだったとしても、撫でてもらうのは気持ちがいいだろうが、恋となると気持ちが悪い。そういう変な趣味は、ボクにはないし……。

 それとも、飼ってくれるんだろうか?

 そうかもしれない、とクセルクセスは思った。
 だとしたら、ラッキーだ。
 彼の空腹は限界に近かった。今だったらどんなものでも食べられる。少しばかり腐った魚でも、いや、焼くのを失敗して炭になった干物だって食べられる。

 呼んでくれているんだ!

 クセルクセスは、とっても嬉しくなった。
 立ち上がり、走っていきたいのをぐっと我慢して、そろそろとお兄さんのほうへ歩いた。
 最初が肝心なんだ、と自分に言い聞かせながら、お兄さんの座っている場所へ向かう。うれしくても、ツメを出したりしちゃいけない。いきなりかぶりついてもいけない。かぶりつくのは人間にとっては愛情表現ではないのだ。由美子さんにもよく叱られた。

 お兄さんの座っている隣に、クセルクセスはゆっくりと腰掛けた。
 できる限り甘えた声を作って、「ニャア」と鳴いてみた。
 お兄さんは、まん丸い眼をもっとまん丸にしながら「わ、わお」とクセルクセスの口真似をして言った。

 そこら中を転げ回りたいぐらい、クセルクセスは嬉しくなった。幸せで、背中の毛が全部持ち上がったような感じだった。
 自分を落ち着かせるために、クセルクセスは手を舐めた。


    イチバンセン 正面にいる 
男の人
本を読んで
いるオバサン
    首を振って
楽しそうにしている
お兄さん

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