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 24:05 末広町駅-神田
 兼田勝彦
(かねだ かつひこ)


     いま、行くからな。

 兼田は、胸の中で和則に語りかけた。
 家に帰ったら、お父さんと遊ぼうな。

 ドアが閉まり、兼田は再び顔を上げた。
 自分でも、落ち着きがないことはわかっていた。キョロキョロと、周囲ばかり気にしている。落ち着け、といくら言い聞かせてみても、どうにもならなかった。

 正面に座っている浮浪者風の男と目があって、兼田は慌てて顔を中吊り広告のほうへ上げた。どうやら、無意識のうちに正面の男を見つめていたものらしい。

 浮浪者……。
 ふと、兼田は眉を寄せた。吊り広告からクーラーバッグに視線を落とし、コクリと唾を呑み込んだ。

 浮浪者は、電車などには乗らないのではないか?
 ああいう連中は、駅の構内や地下道などで生活している。段ボールで自分の身体を囲い、通行人には目もくれず、自分たちだけの世界に生きている。駅の近くではよく見かけるが、連中が電車に乗ることなどあるのだろうか?

 むろん、浮浪者のことはよく知らない。連中に対して持っているのは想像だけだ。
 しかし、あんな仕事もせずに通路で生活しているような連中が電車に乗って移動するとは思えなかった。彼らの移動手段は、自分の足だけだろう。歩ける範囲を移動し、そしてまた自分が勝手に決めたテリトリーに歩いて戻ってくる。

 では、正面の男は、なんなのか……。

 兼田は、直接男を見ないようにしながら、そちらへ意識を集中させた。
 あの男は、その隣の労務者風の男と一緒に上野広小路から乗ってきた。二人は並んで兼田の前に腰を下ろしている。

 犯人の変装……?

 つい、そんな想像をしてしまう。
 兼田は、そっと唇を噛んだ。小さく息を吐き出し、眼を閉じた。

 だとしたら、どうだというのか?
 前に座っている二人が犯人だとしたら、お前にいったいなにができる?
 犯人は、銀座に2千万を持ってこいと言った。犯人の声は電話で聞いたが、目の前で話しかけられても、それが犯人かどうかを聞き分ける自信は私にはない。電話は作り声だったのかもしれないではないか。
 このクーラーバッグに入っている2千万を、犯人の言う通りに手渡す。それしか、今の私にできることはない。犯人が誰か、今どこにいるのか、この電車に乗っているのか、銀座の駅で待っているのか――そういうことは、すべて警察にまかせておけばいいことだ。

 私がしなければならないのは、犯人に確実にこのカネを渡すこと。
 それしかない。
 それ以外に、私にできることはない。

「…………」

 不意に、目の前で男が立ち上がって、兼田は驚いた顔を上げた。
 こちらに来るのかと思ったが、男は車両の後ろを見つめたまま、無表情に兼田の前を歩いて行った。
 労務者風のもう一人の男は、依然としてシートに腰を下ろしたままだ。
 不審に思いながら、兼田はゆっくりと歩く浮浪者風の男の背中を眺めた。

 男は、最後尾まで歩いて行くと、そこへ腰を下ろした。兼田の並びの、一番向こう。不良のガキの隣の席だ。その手前には、中年の婦人が目の前に拡げた手帳を眺めていた。

 なんだろう……。

 兼田は、膝のクーラーバッグに目を落としながら思った。
 あの男たちは連れではなかったのだろうか?
 連れだとすると、どうしてあの男だけが席を移ったのだろう。

 兼田は首を振った。
 周囲にいるすべての人間が、和則をさらった犯人のように思えてしまう。
 苦しくて仕方がなかった。


    浮浪者風の男 労務者風の男 不良のガキ
    中年の婦人

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