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さあ、正念場だ。
松尾昇の後ろを歩きながら、奈緒子は電車の到着を待っている利用客た
ちに素早く視線を走らせた。都合のいいことに、松尾はあまり人気のない
ホームの前方へ歩いて行く。
松尾にとっても、他人の耳がある場所はいやなのだろう。それは、奈緒
子にしても同様だった。
不意に松尾の足が止まり、彼はくるりと振り返って、奈緒子に視線を向
けてきた。
奈緒子は、びっくりしたような表情を作って松尾を見上げた。ほんのち
ょっとだけ微笑んでみせる。今、彼に向けるべきなのは微妙な笑顔だ。彼
を当惑させるような、意味不明の微笑みだ。
「ごめんなさい」
小さな声で言い、そのまま眼を伏せる。
松尾の苛立ちが奈緒子にも伝わってくる。奈緒子に対する苛立ちと言う
よりも、むしろ自分自身に対しての苛立ち。
「あなたにとって……僕は、どういう人間なんですか。遊びだったんです
か?」
奈緒子は、首を振ってみせた。
「ちがいます。そういうことじゃないんです。ごめんなさい」
言いながら、奈緒子は、自分の仕掛けが完全に松尾を捕らえたことを確
信していた。
もちろん、ここからが大切なのだ。この先で失敗したら、なにもならな
い。何ヶ月もかかって準備してきたことが、すべて無駄になってしまう。
松尾には、すべての主導権が自分にあると思わせておかなければならな
い。
そうでなければ失敗する。
「他に、好きな人がいるんですか?」
と、松尾が訊いた。
奈緒子は、視線を床に落としたまま首を振った。
「じゃあ、どうしてなんですか。はっきり言ってください。僕が嫌いなの
か、夫として不足なのか、理由を聞かせてください。もちろん、今日の今
日、お返事が伺えるとは思っていません。考えてくださいと言ってるんで
す。どうして、結婚してくださいと言ったとたんに別れるなんてことにな
ってしまうのか、僕にはよくわからないんですよ」
奈緒子は、松尾に目を上げ、最初の攻撃を開始した。鏡の前で、何度も
繰り返して練習した表情だ。笑顔にも泣き顔にも取れる、その中間の表情。
そして、計画通りの台詞。
「松尾さんは、私のこと、何もご存知じゃないんです」
その後の松尾の反応は、手を叩きたくなるぐらい奈緒子の予想通りのも
のだった。
「……いや、そりゃあ、僕たちは知り合ってからまだ2ヶ月ちょっとだし、
お互いに知らないことはたくさんあります。でも、じゃあ、何もかも知っ
た後じゃないと、美佳さんに結婚を申し込んではいけないんですか?」
美佳、と呼ばれた瞬間、奈緒子は思わずゾクリとして肩をすくませた。
自分が用意した偽名ながら、どうもすわりが悪い。もう少し、野暮ったい
名前のほうがかえってよかったのではないか。
「何もかも知ったら、松尾さんは私に結婚の申し込みなんてしませんよ」
言うと、松尾は戸惑ったような眼で奈緒子を見返した。
「どうして……なんで、そんなことがわかるんですか」
奈緒子は、黙ったまま首を振った。
ここは無言。答えを、すぐに返してはいけない――。
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