前の時刻

  

 24:06 末広町-神田駅-三越前
 クセルクセス


     本当は、チャコの毛の色をしたお兄さんの膝に飛び乗りたかった。飛び乗って、そこら中をなめ回して、かじりついて、ご挨拶にお尻の匂いも嗅がせてあげて、そして身体中をお兄さんになすりつけたかった。
 でも、それはまだできなかった。会ったばかりのお兄さんにそういうことをするのは早すぎる。
 だから、クセルクセスはソファの上で精一杯身もだえしてみせるだけにした。

 すると、驚いたことに、お兄さんのほうも身体をグニグニと揺らせはじめたのだ。クセルクセスにニコニコと笑いかけながら、しきりに身体をグニグニさせている。
 クセルクセスは、最高に嬉しくなった。幸せでいっぱいになった。

「カモン、ブラザー! ぶっ飛び兄さん」

 突然、お兄さんは、歌うような調子でクセルクセスに話しかけてきた。言葉の意味はよくわからなかったが、それがクセルクセスに話しかけてくれていることは、よくわかる。

「あんた、いったいどこの誰? 見かけによらず、柔らかボディ。おめめギラギラ、頭ぐちゃぐちゃ。やったらめったら、ワイルドガイ。そんで、このあと、どうなんの?」

 お兄さんの話し方は、テレビの中の人と同じだった。歌うように話している。とっても嬉しい話し方だ。

「にゃあお!」

 クセルクセスは、できる限り甘えた声を作って鳴いた。これまで鳴いた中で最高の甘えた声だった。
 頭の上で、カチリ、と音がして、クセルクセスは天井を見上げた。

「まもなく神田、神田です。JR線はお乗り換えです。なお、ただいまの時間、後ろの階段、閉鎖中ですからご注意を願います。お出口は右側に変わります。神田でございます」

 テレビのような声が言った。何を言っているのか、クセルクセスにはまるでわからなかった。
 お兄さんに目を返すと、お兄さんは、なんでもないよ、と言うように肩をすくめた。

「にゃお!」

 嬉しくて、またクセルクセスは鳴いた。
 すると、突然お兄さんがソファから立ち上がった。

「おいら、次で降りるんだけど。あんたは、どこまで乗ってくの?」

 慌てて、クセルクセスも立った。

「なんか、たべたい」
 ちゃんと発音できたかどうか不安だったが、クセルクセスは、なるべくお兄さんにわかるようにゆっくりと人間の言葉で言った。
 お兄さんは、ちょっと考えるように目を宙にやったが、ニヤッと笑いながらドアのほうへ歩き始めた。
 そして、クセルクセスの口真似をした。

「ガッガ、ギャベダー!」

 もう、クセルクセスは気が狂いそうだった。こんなに幸せでいいのだろうか?

「なんかたべたい」
 言うと、すかさず、お兄さんも繰り返す。
「ガッガ、ギャベダー!」
「おなかが、すいた」
「ゴダダダ、ギャベダー!」
「すいた、すいた、すいた」

 お兄さんが、笑った。
 クセルクセスは、このお兄さんのところで飼ってもらうことに決めた。嬉しくて、何度も鳴き声をあげた。

「にゃお、にゃお、にゃにゃー」

 電車の外が突然明るくなった。
 ちょっと不安になったが、お兄さんを見ると笑いながら窓を叩いている。お兄さんも嬉しそうだった。だから、クセルクセスは、お兄さんの横で、もっと大きく身もだえした。

 電車が停まって、ドアが開くと、お兄さんはピョンと外へ飛び出した。クセルクセスも真似をして飛び降りる。

「ガッガ、ギャベダー!」
 お兄さんが、歩きながら歌うように言った。
 クセルクセスも、お兄さんと並んで歩きながら、歌うように鳴く。

「おなかが、すいた」
「ガッガ、ギャベダー!」
「おなかがすいた」
「ガッガ、ギャベダー!」
「おなかがすいた」
「ゴダダダ、ギャベダー!」
「すいた、すいた、すいた」
「ジーダラ、ジダジダ!」
「すいた、すいた、すいた」

 お兄さんが、ケラケラ笑いながらクセルクセスを見た。
 クセルクセスも、思い切って笑ってみた。
「きゃははははは!」

 とってもうまく笑えた。


    チャコの毛の色
をしたお兄さん

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