![]() | 24:06 虎ノ門駅 |
どういう意味なのだろう、と松尾は思った。 ――何もかも知ったら、松尾さんは、私に結婚の申し込みなんてしませんよ。 何を知ったら、というのだ? どんな事情が、早川美佳にこのようなことを言わせているのだろう。 松尾は、これまで美佳のような女性に出会ったことがなかった。いや、もともと女性に縁がある男ではなかったが、何もかも、彼女は特別だった。 世の中には、松尾以上に風采があがらなくても、もてる男はいる。だから、女性に縁がないのがすべて風采のせいではないだろう。 あなたはセンスのない人だと、見下すように言った女がいる。その口調にはむかついたが、言われたことは納得できた。そもそも「センスがいい」というのがどういうことを言うのか、それ自体が松尾にはわからない。 女性が魅力を感じるようなものを、何一つ自分は持っていないのだと、松尾は半ば自覚していた。だからこそ、美佳が自分を好きだと言ってくれたとき、天にも昇るような気持ちになった。 この人は、誰も見つけることのできなかった魅力を、僕の中から掘り起こしてくれたのだ。 偶然というものを、どこかの神が支配しているなら、松尾はその神にひれ伏したいと思った。松尾が美佳と知り合ったのは、ほんの小さな偶然だったのだから。 今までは神社に参拝しても賽銭など投げたことがなかったが、今なら百円でも二百円でも上げられる。 一生に一度の女性――。 松尾は、美佳をそう思うようになっていた。彼女抜きで自分の将来を考えることは、もう、不可能だ。 嫌いだと言われたのでない限り、引き下がるわけにはいかない。と松尾は思った。 困り果てたような表情の美佳を見つめながら、松尾は小さく息を吸い込んだ。 「何もかも知ったらって、どういうことなんですか? 話していただけませんか?」 訊いたが、美佳は視線を松尾に返してはくれなかった。ホームの床に目を落としたまま、ゆっくりと首を振った。 「お話しできるようなことじゃないんです」 胸を締めつけられるような言葉だった。 よほどの事情なのだということは、美佳の苦しそうな口調からも察することはできる。でも、それはいったいどんな事情なのだ? 何が、自分と美佳の幸せを邪魔しているのか。 なんとしてでも、その邪魔な障害を取り除きたいと松尾は思った。 障害……なんだろう? 彼女自身に関することなのか? それとも、彼女の家族に関することなのか? それを知ったら、結婚など申し込まないような事情……。 想像ができなかった。いま美佳に対して抱いている気持ちが崩れてしまうような事情など、この世の中に存在するだろうか? 一生に一度の女性を失うほどの事情が、どこにあるというのだ。そんなものがあるわけはない。 「その――」 美佳が首を振って、言いかけた言葉を遮った。 「ごめんなさい。松尾さんにひどいことをしているのは、自分でもわかっています。でも、お訊きにならないで下さい。松尾さんは、とっても優しくて誠実な方だと思います。地に足がついているっていうか、とっても頼れる方だと思います。だから、そんなところに私も惹かれちゃって、この人なら……ってバカな期待をしたりもしました」 「バカな期待――」 どうして、それがバカなんですか、という言葉を、松尾はぐっと呑み込んだ。 「ですから、結婚をって言って下さったときは、とっても嬉しかったんです。ほんとに。涙が出そうになったぐらい嬉しかったの。でも、私は松尾さんにふさわしくないんです。ごめんなさい。結局、嘘をつきながらお付き合いさせていただいていたみたいなことになってしまいました」 嘘をつきながらお付き合い……松尾は、ポケットの中の婚約指輪のケースを握りしめた。 叫びたかった。 「美佳さんほど、僕にふさわしい女性は世界中どこを探してもいないんです!」 そう叫びたかった。 |
![]() | 早川美佳 |