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 24:06 虎ノ門駅
 桜井奈緒子
(さくらい なおこ)


     松尾は、知り合ってから2ヶ月と言ったが、実際に奈緒子が松尾昇についての調査を開始したのは半年以上前になる。むろん、奈緒子が自分について調べていたなどということを、松尾は露ほども知らない。

 ターゲットを選定する場合の第一条件は、もちろんカネを持っていることだ。
 しかし、ある人物がカネを持っているかどうかを判断するのは結構難しい。もちろん、すぐに判断できる人種は存在する。大企業のトップ、財閥の御曹司、売れっ子のタレント……しかし、そういった男たちは、まずターゲットから外す。財閥などは、家柄が格式を持っているから、御曹司が夢中になっている女がいるとなると、彼女についての徹底的な調査を行なったりする。そんなことをされてはたまったものではない。
 奈緒子には前科こそないが、戸籍や住民票など調べられたら一発で偽名を使っていることがばれてしまう。仮の名前、仮の住所、仮の職業……プロが調べれば、そんなものを暴き出すのはいたってたやすい。

 狙いをつけるのは、ごくあたり前の男である。派手な生活をしている男はだめだ。ブランドを着て、外車を乗り回しているような男は金を持っていない。カネは使うためにあると、連中は思っている。そんな男の懐にカネは残っていない。
 ケチな男がいいのだ。
 たとえば、その典型が、この松尾昇――。

 プロポーズをしたその日のデートに地下鉄を使う。ここはうまいものを食わせるんですよ、と連れて行かれたのはなんと定食屋だった。高層ビルの展望台に登って、夜景を見せてくれたが、ホテルの部屋を予約しているわけでもない。夜景を見たのは高級レストランの脇にあるティールームで、松尾は千円のミルクティーのポットを一つとっただけで、奈緒子にプロポーズしたのだ。彼が差し出した指輪は、どうみても5万円を超える品物ではなかった。

 こういう男は、まず女にはもてない。
 しかし、小金はため込んでいる。奈緒子が調べたところによると、彼の16の口座(!)には、合計二千六百万の預貯金がある。有価証券類は約三千万。所有している不動産の評価額は、低く見積もっても二億は下らない。
 しかし、彼の住んでいるアパートは、古い木造の二DKなのだ。

「何もかも知ったらって、どういうことなんですか? 話していただけませんか?」

 松尾が焦れたように訊いた。
 奈緒子は目を伏せたまま、小さく首を振った。

「お話しできるようなことじゃないんです」
「…………」

 焦れてちょうだい、と奈緒子はお腹の中で言った。
 知りたいでしょう? 松尾さん。どうして、あたしが別れましょうと言ったのか、その理由が知りたくてたまらないでしょう?

 ポイントの一つは、とにかく自分からはエサを投げないということだ。
 詐欺の難しいところはここにある。初心者の多くはここで失敗する。「すごく儲かる話があるんだけど」などと自分から話してしまうのだ。松尾のような男は、その時点で小さな警戒心を持つ。ほんの小さなものではあっても、ターゲットに警戒心を抱かせてしまったら、詐欺は成立しない。

 奈緒子は、松尾にとってとびっきりの儲け話を用意している。
 だが、それを奈緒子から積極的に持ちかけることは絶対にしない。すべては、松尾が自分の意志でエサに食らいついてくるように仕向けるのだ。そうでなければ、芸術的な詐欺とは言えない。

「その……」
 言いかけた松尾に、奈緒子はもう一度首を振って頭を下げた。
「ごめんなさい。松尾さんにひどいことをしているのは、自分でもわかっています。でも、お訊きにならないで下さい。松尾さんは、とっても優しくて誠実な方だと思います。地に足がついているっていうか、とっても頼れる方だと思います。だから、そんなところに私も惹かれちゃって、この人なら……ってバカな期待をしたりもしました」
「バカな期待――」
「ですから、結婚をって言って下さったときは、とっても嬉しかったんです。ほんとに。涙が出そうになったぐらい嬉しかったの。でも、私は松尾さんにふさわしくないんです。ごめんなさい。結局、嘘をつきながらお付き合いさせていただいていたみたいなことになってしまいました」

 松尾の顔が微妙に歪むのが見て取れた。
 ジャケットのポケットに突っ込まれた手が拳を握っているのがわかる。その拳には紺色の指輪のケースが握りしめられていることを、奈緒子は知っていた。


 
    松尾昇

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