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 24:07 虎ノ門駅
 松尾昇
(まつお のぼる)


     どうすれば、自分の気持ちを美佳に伝えることができるのか、松尾にはよくわからなかった。

 結婚を申し込んだ。
 普通は、それで自分の気持ちが伝わっているはずだ。愛しているから、美佳が自分にとって最高の存在だから、だから結婚を申し込んだ。
 しかし、それでは足りないのだと、松尾は思った。

 何かの障害が、松尾と美佳の間を引き裂こうとしている。
 そんな障害など、世界中のどこにも存在しないのだと、美佳にわからせてやらなくてはならない。なにを告げられたとしても、松尾の気持ちが変わることはない。

 絶対に、ない。

 それを伝えたい。
 美佳の苦しみを、自分が和らげることはできないのだろうか。いや、その苦しみを、美佳の代わりに自分が背負うことはできないのだろうか。
 美佳のためなら、美佳を苦しみから救い出すためなら、どんなことでもできる。
 この美佳には、苦しみなど無縁でなければならないのだ。こんなに美しく、こんなに清らかな人が、たとえどんな理由であろうと苦しむなんて間違っている。そんなことがあっていいわけはない。
 それを取り除くのは自分の役目なのだ。他の人間にはできないことなのだ。

 美佳は、じっとホームの床を見つめていた。
 どう言えばいいのだろうと、松尾は思った。こういうときは、どうすればいいのだろう。

「その……」
 言いかけた言葉を、松尾は呑み込んだ。
 美佳は、うつむいたままじっと床を見つめている。
「美佳さんは、ふさわしくないって言いましたけど、じゃあ、どういう男が美佳さんにはふさわしいと考えているんですか?」

 静かに美佳が顔を上げた。
 その表情に、松尾は狼狽した。いままで、これほど悲しそうな顔をした人を見たことがなかったからだ。
 なにをどう言えばいいのか、よけいにわからなくなった。頭の中が真っ白だった。
 口をついて出た言葉は、自分で考えても最低の言葉だった。

「逆じゃないんですか? 僕が美佳さんにとってふさわしくないから――」
 しかし、その最低の言葉を振り切るように、美佳が首を振った。
「違います。私――」
 美佳の眼は、まっすぐ松尾を見つめていた。彼女は、また強く首を振った。
「私、松尾さんが大好きですから」

「…………」

 松尾は胸を詰まらせた。
 言葉を失った。
 これほどの感激を味わうことは、一生に何度もないだろう。いや、これが自分の生涯で最高の時間なのかもしれない。

 しかし……と、松尾は美佳の視線に射抜かれたまま、息を深く吸い込んだ。
「じゃあ――」
 言いかけたとき、なにかが眼の端で動いた。そちらへ目を向けると、ニコニコと笑っている女性が立っていた。

「…………」
 やよいだった。
「小枝」という店の女だ。一度だけ、ほんの一度だけ、松尾はやよいとベッドを共にしたことがある。そのときのことが、なんとなく、彼女に借りのような気持ちを作っていた。

「こんばんは。お久しぶりですね」
 やよいは、松尾と美佳に近寄りながら声をかけてきた。
「…………」

 どうして、こんなところに、と思ったが、それは馬鹿な疑問だった。
「小枝」は、虎ノ門にある。そしてやよいの住んでいるマンションは末広町なのだ。ようするに、店が引けて彼女はこれから帰宅するというだけのことだろう。
 しかし、こんなときに……と、松尾は歯痒さに似た気持ちになった。なにも、こんな時にやよいに会わなくてもいいじゃないか。なんとなく間が持たず、松尾は自分の顔をひと撫でした。

「このごろお見えにならないから、松尾さん、どうしたのかなって思ってたのよ」そう言って、やよいは美佳のほうへ目をやった。微笑みながら小さくお辞儀をした。「ごめんなさい」
 美佳が、戸惑ったようにやよいにお辞儀を返した。

「いや、最近は接待もあまりないので――」
 やよいに言いながら、どうやってこの女を振り切ろうかと松尾は考えた。
 どこかへ消えてほしい。いまは、大切なときなのだ。

「この方、松尾さんの彼女?」意味ありげに、やよいは松尾に笑いかけてくる。「隅に置けないんだから」
「え、いや、その……」
「紹介していただけない?」

 やよいにそう言われて、松尾は、え、と彼女を見返した。


 
     美佳  やよい

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