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 24:07 赤坂見附駅
 米村正紀
(よねむら まさのり)


     が何か言ったように思えて、米村は彼の口に耳を近づけた。
 しかし、ホームにバカでかい音でピンポンピンポンと鳴り響くチャイムに邪魔されて男の言葉が聞き取れない。

「なんだって?」

 男は、また、ぐぐぐ……と、喉が詰まったような声を出した。
「はっきり言えよ。言いたいことがあるんだろ? わかるようにはっきり話せ」
 ブルブルと、細かく唇をふるわせながら、男がつぶやく。そこに、アナウンスの声がかぶさるように響いた。
 しかし、そのアナウンスの声の合間に、米村はひとことだけ男の言葉を聞いた。

「……ありがとう――」

「…………」
 米村は、じっと男の顔を見つめた。
 男の眼は虚ろだった。どこを見ているのかわからない。たぶん、自分を抱き上げているのが誰なのかもわかっていないだろう。

「なんだ、おまえ! ばかやろう! しっかりしろ。なにお礼なんか言ってんだ。そういうのは、はっきり助かったことがわかってから言え……」

 なんだかわからないが、米村はひどく急き立てられているような気持ちになった。ションベンを我慢しながらマッポに追いかけられているような気分だった。

 ありがとう……?

 赤の他人からお礼の言葉を言われたことなど、米村にとっては生まれて初めてだった。赤の他人は、誰もが米村を汚い虫けらを見るような眼で眺め、避けて通り過ぎる。他人から感謝されるようなことは、これまでの一生でまったく経験しなかったことだ。
 電車が走りはじめた騒音をうるさく思いながら、米村は男の顔を見つめていた。

 え……?

 はっとして、米村は男から顔を上げた。
 電車の最後の車両が、トンネルの中へ吸い込まれていった。

「あ」

 立ち上がりかけて、男の身体がぐらりと傾く。あわてて、米村は男の胴体を抱えなおした。

 ちょっと待て……おい、どうして?
 目は、真っ暗なトンネルのほうへ釘付けになったままだった。

「じょ、冗談じゃねえぞ……」

 自分の置かれた状況がよくわからなかった。
 頭が混乱している。

 電車が……いっちゃった?

 ぐるりと、周囲を見回した。ホームに残っている乗客の何人かが、米村と彼の腕に抱えられている男を見ていた。向こうから、駅員の制服を着た男がこちらへ走ってくるのが見えた。

 オレ……。
 電車に……その。1000万円の……ええと、その。

「大丈夫ですか?」
 走ってきた駅員が、男を覗き込みながら米村に聞いた。米村は、首を振った。腕に抱えた男の体重が重い。
「大丈夫じゃ……ねえよ」

 一瞬、米村は自分のほうが気を失いそうになった。


 
   
       

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