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「ヒロコさん」
と後ろから呼び止められて、米良ヒロコはゆっくりとそちらを振り返った。
数歩離れたところに立ち止まって、内海能章が彼女を見つめていた。その
真剣な眼差しに、ヒロコは薄い微笑みを戻して彼を見返した。
「そんな冗談をおっしゃっていたら、ただでも短い残りの命がもっと短くな
ってしまいますよ」
言うと、内海はまじめな顔で、うんうん、とうなずいた。
「短いからこそ、あとを楽しく生きたいと思うのですよ」
ヒロコは、内海のほうへ1歩だけ近寄った。合わせるようにして、内海も
ヒロコのほうへ1歩足を進めてきた。まるで、社交ダンスでも始めるようだ
わ、とヒロコは少し可笑しくなった。
「あたしは、82ですよ」
言うと、内海はうなずいた。
「僕は89です」
ぷっ、とヒロコは吹き出し、口元を手で押さえた。
こんな歳になって……と、ヒロコは思った。まさか、プロポーズされると
は思わなかったわ。
死に別れた亭主とは見合いだったし、プロポーズそのものが初体験だ。ど
うせなら、50年か60年前にその言葉が聞きたかったものだわね。
「いままでのように、お友だちではいけないんですか?」
言うと、内海は首を振った。
「けじめというのが大切でしょう。友だちでは、あんたの手を握ることもで
きない」
「まあ……」
と、ヒロコは内海を見つめた。
「あたしの手を握って下さるの?」
「結婚して下さればね」
「若い人は、友だちだって手ぐらい握りますよ」
「それは、ツルツルの手だからです。皺だらけの手を握り合うには、けじめ
というのが必要になる」
「面倒なことですねえ」
笑うと、内海もつられたように笑いを返してきた。
それは、まるでいたずら小僧のような笑顔だと、ヒロコは思った。
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