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歩き疲れて、内海能章はそこへ立ち止まった。
米良ヒロコは、さらに前へ行こうとしている。やはり若いな、と内海は思った。
「ヒロコさん」
声をかけると、ヒロコは歩みを止め、静かにこちらへ振り向いた。
ようやくほっとした。
「そんな冗談をおっしゃっていたら、ただでも短い残りの命がもっと短くな
ってしまいますよ」
言ったヒロコに、内海は、そうか、とうなずいた。
冗談か。まあ、冗談にしかなるまいな。誰が聞いても笑い話だ。
「短いからこそ、あとを楽しく生きたいと思うのですよ」
言うと、言葉が遠いと感じたのか、ヒロコは内海のほうへ一歩踏み出した。
内海も彼女に一歩寄る。これで、普通に話ができる。
「あたしは、82ですよ」
ヒロコは、どことなく笑いを残したままの顔で言った。
「僕は89です」
途端に、ヒロコが吹き出した。
ずいぶん、この人の笑顔に助けられた。長い間、忘れていたものを、この
人は私に思い出させてくれたのだ。
「いままでのように、お友だちではいけないんですか?」
内海は真面目な顔を作った。
「けじめというのが大切でしょう。友だちでは、あんたの手を握ることもで
きない」
「まあ……」と、ヒロコが眼を見開いた。「あたしの手を握って下さるの?」
まるで、女学生のような笑顔じゃないか。
「結婚して下さればね」
言うと、ヒロコは内海を睨む。
「若い人は、友だちだって手ぐらい握りますよ」
内海は小さく首を振った。
「それは、ツルツルの手だからです。皺だらけの手を握り合うには、けじめ
というのが必要になる」
「面倒なことですねえ」
そう言って、ヒロコはまた笑い声をあげた。
その彼女の笑顔に引きずられて、内海も笑った。笑いながら、思った。
やれやれ、本当に面倒なことだ。
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