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 24:10 日本橋駅-京橋
 落合綾佳
(おちあい あやか)


   「宿題……じゃ、ないですよね」
 言われて、綾佳はを見返した。首を曲げるようにして、彼は綾佳の手元を覗き込んでいる。

「あ、ああ……」と、綾佳は照れ笑いを顔に出した。「ええと、パズルなんです」
「パズル?」
 男は、眼を丸くして問題と綾佳の顔の間で視線を往復させた。
「クイズというか、暗号の解読クイズ」
「暗号――」

 電車が走り出して、その拍子に男の肩が綾佳の肩にぶつかった。
 綾佳は、問題の書かれた紙を男のほうへ見せてやった。
「このレベル3っていうのが、難しくて」

「…………」

 べつに渡すつもりで見せたわけではなかったのだが、男は綾佳の手からそれを取り上げ、アタッシュケースの上で拡げた。じっと、にらみつけるように見ている。読むときの癖なのか、口をやや尖らせるようにして、眉を寄せていた。
 なんとなく可笑しかった。

 宿題かぁ。

 いったい、この人はあたしをいくつだと思ってるんだろう?
 宿題?
 小学生か、あたしは。

 でも、宿題って言えないこともないな、と綾佳は、真剣な表情で問題をにらみつけている男を眺めながら思った。
 パズ研が寄越した宿題。
 もちろん、あいつが言ったのは「よかったら、解いてみませんか?」だ。宿題を出されたわけじゃない。こんなもの、そのまま丸めてゴミ箱行きにしてやったって、どうってことはない。

 ふつう、そうするよなー。
 初めて会ったヤツから暗号パズルなんて受け取って、真面目に解いてみようとする女の子なんていないかもしれないよなあ。

 でも、なんかあたし、ずっとこれと格闘してる。
 まるで宿題みたいに――。

「なるほど」
 男が言って、綾佳は彼に目を返した。
「面白いですね」
「…………」
 その男の言葉が意外に思えた。
「あ、どうも」
 言いながら、男は紙を綾佳に返してきた。やたら生真面目な男の顔が、とてもおかしかった。

「これに、2進数をあてはめてみようっていうわけだったんですね」
「はい」と綾佳はうなずいた。「それが当たりなのかどうか、まだわからないんですけど」
 いやいや、と男は首を振る。
「すごいですね。頭が柔らかいんだなあ」
「はあ?」
 思わず、眼を見開いた。

 男は、しげしげと綾佳を見つめる。なんとなく、くすぐったい。
「いや。この文字と数字の羅列から、2進数を引っぱり出してくるっていう発想って、なかなかできるもんじゃないでしょう」
「……そうですか?」
 ほめられているのだろうけれど、そのまま鵜呑みにするのも妙に思えて、綾佳は首をひねった。

「当たりだと思いますよ、ほら」
 と、男は綾佳が持っている問題を指さした。
「【やはねひなこんさ】に【00100010】を組み合わせて、ビットの立っているところを読むと【ねん】になる」
「ねん……」
 綾佳は、問題に目を返した。

 男が指で押さえているのは、綾佳のメモの部分だ。

  やはねひなこんさ
  00100010

「ね?」
 どうやら、男の言った「ビットの立っているところ」というのは【1】を指しているらしい。
「…………」
 でも、言われている意味はよくわからなかった。

「ご乗車ありがとうございます」と、車内アナウンスが告げた。「銀座線渋谷行の電車です。まもなく京橋、京橋です。お出口右側に変わります」

「当たりですよ」
 男は、もう一度繰り返して言った。


       

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