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 24:10 銀座駅
 内海能章
(うちうみ よしあき)


    「画用紙に絵を描いてくれました」
 言うと、ヒロコは眼を輝かせた。
「まあ。似顔絵?」

 内海は、吹き出しそうになるのをこらえながら、首を振った。
「それがですね」
 それだけ言って、こらえきれずに笑い出した。あの時のことを思い出すと、楽しくて仕方がない。
「嬉しそうだこと。そんなに素敵な絵だったんですか」
 はいはい、と内海は笑いながらうなずいた。

「お墓の絵だったんですよ」
「え?」
 ヒロコは、眼を丸くして内海を見返した。
 クスクスと笑いながら、内海は小さく首を振った。

「オオジイちゃんが死んだら入るお墓だって言ってね」
「まあ……」
「母親が慌てて、そんなもの失礼じゃないかとか、ごめんなさいとか、叱ろうとしたけれども、僕にはその曾孫の贈り物がほんとうに嬉しかった」
 ふふふ、とヒロコが笑顔をつくった。

「小学校に上がられた曾孫さん?」
「そうです。ピッカピカの一年生。上手な絵なんですよ、これが。大きくて、立派な墓なんです。総理大臣にだって負けないような、ほんとうに立派な墓を描いてくれましたよ」
 ええ、とヒロコがうなずいた。
「それは、素敵な贈り物をいただいたじゃないですか」
「そうでしょう? これ以上の贈り物はありません」

 できることなら、その墓にヒロコも一緒に入ってほしいと言おうと思ったが、さすがに気が咎めて口には出さずにおいた。
 あの時、母親はその絵を取り上げようとしたが、内海は渡さずに部屋へ持って帰った。母親は「お祖父ちゃん、そんな嫌味なことしないでください」と泣きそうになって言う。「嫌味じゃあない。ほんとに嬉しいんだよ。大事に大事にするから取り上げないでくれ」そう言っても、あの母親は困った表情のまま内海を睨みつけていた。

「ああ、それで」と、気がついたようにヒロコが言った。「それで、今日、デパートで額を熱心に見ておられたのね」
 えへへ、と内海は照れて頭を掻いた。
「そうです。部屋の壁に画鋲でとめてあるんですが、ホコリにしてしまってはもったいないですからね」
「あたしはまた、内海さんが、絵でもお始めになるのかと思った」
「いえいえ」と内海は首を振った。「絵なんぞ描けませんよ。才能も素養もなにもない」

「そんなこと関係ないじゃありませんか」と、ヒロコは菩薩のような微笑みを顔中にひろげて言う。「なさればいいのに」
「いや……やはりなにがしかの才能は必要でしょう」
「二科展に出されるわけじゃないし、上手下手なんてどっちでもいいことじゃないかしら。曾孫さんの絵をお手本にして、練習なさったらきっと楽しいと思いますけどねえ」
「おお……」

 内海は、驚いてヒロコを眺め返した。
 もしかすればその通りかもしれないと、ふと思った。89歳にもなって、持ったこともない絵筆を手にするなど恥ずかしいと思い、才能だ素養だと言い訳をしたが、そう、かえってこの歳になれば、そんな恥などなんということもない。

 それよりも、自分の描いた下手な絵を、このヒロコに見てもらえるなら……。

「デパートの額の売場の横に、とっても素敵な硯箱が並んでいたの、ご覧になった?」
 ヒロコが言って、内海は、はて、と頭を巡らせた。
 硯箱……。
「立派な蒔絵のきれいな硯箱があったんですよ。船の舳先と波と鴎の図柄で、とても上品で見とれてしまったわ」
「へえ……」

 ほんとうにいい顔をしている、と内海は、またヒロコを眺めた。


 
    ヒロコ

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