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 24:10 新橋駅
 鶴見七郎
(つるみ しちろう)


     しかし、こんなやり方で威嚇をする人間などに、鶴見は出会ったことがなかった。
 にらみつけるとか、因縁をつけてくるならわかる。自分の頭を思い切りぶん殴るなどというのは、あまりに常軌を逸している。

 やはり、どこかおかしいのだ――。
 あいつは、イカレている。

 イカレた男は、相変わらずの無表情な頭をユラユラと揺らせ続けていた。そして、鶴見たちのほうに――正確に言えば、雪絵に――目を据えている。

 変質者……。
 そうなのかもしれない。

 雪絵は、こういう女だ。
 このバカ娘をチヤホヤする男など掃いて捨てるほどいる。雪絵にしてみれば、男など自分の言うことを聞くオモチャにしかすぎないのだろう。
 しかし、オモチャにされて喜んでいる男ばかりではない。哀れにも真剣に雪絵を好きになってしまった男だって、皆無とは言えないのではないか。

 そんな男が、捨てられたことを恨みに思い、逆に雪絵に牙をむく……そういうことがあってもおかしくない。

 自業自得――とも思う。
 雪絵が自分で蒔いた種だ。お守りなどいらないと偉そうな口をききながら、わがままな子供から成長できないお嬢様。その彼女が自分で作った落とし穴だ。
 勝手に落ちればいい、と正直なところ思う。

 だが、鶴見の立場はそれを放っておくわけにはいかなかった。
 雪絵を振り返り、声を抑えて訊いてみる。

「あそこにいる男をご存じですか?」
「…………」
 雪絵は、ポカンとした顔で鶴見を見返した。
 男に気づかれないように注意しながら、小さくそちらを指さす。
「そこに女性がいますね。その隣の隣にいる男です」

 雪絵が、いくぶん眉を寄せながらそちらを眺めた。
 けだるそうな表情だ。ひっぱたいてやりたくなるような、寝ぼけ顔。その焦点の定まらない眼が、ふらふらと鶴見の後方へ泳ぐように揺れた。

「見覚えは、ありませんか?」
 もう一度訊く。
 眉を寄せたまま、雪絵は鶴見をにらむように見返した。
「なにを言ってるの?」
「あの男をご存じありませんか?」

 一度見ただけでは、判断がつかなかったと見えて、雪絵はまた男のほうへ目をやった。
 さらに、雪絵の表情が険しさを増す。

 オモチャにしてきた男どもの顔など、おそらくこのお嬢さんの頭からは消えてしまっているのだろう。たぶん、昨日セックスした男の顔だって、このバカ娘は覚えていないに違いない。
 訊いたのが間違いだったかもしれないと、鶴見は思った。

 むろん、だからといって雪絵自身が悪いとばかりは言い切れない。この娘は、こういうバカな女になるように育てられたのだ。ほしいものはすべて買い与えられ、叱られることもほとんどなく、甘やかされ放題にされてきた。
 なにもかもが自分の思い通りになると思いこんでいるのも、無理はないのかもしれない。

 これが25歳の女なのだ……。
 考えようによっては、哀れでもある。

 無駄かもしれないと思いながら、鶴見は、もう一度重ねて訊いた。
「見覚えがありますか?」
「冗談じゃないわ」
 人を小馬鹿にしたような顔で鶴見を見上げながら、雪絵は言い捨てた。
「知らない人ですか?」
「あんなヤツ、知ってるわけがないでしょう。人のことジッと見て、気持ち悪い。誰なの?」

 やはり確認させたこと自体が間違っていた……と、鶴見は思った。

 
    イカレた
 雪絵 

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