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 24:10 虎ノ門-新橋
 真鍋朱美
(まなべ あけみ)


     いやだ、どうしよう……と、朱美は身をすくませた。

 胸の鼓動が、さらに激しくなる。
 恐ろしくて仕方ないのに、変質者から目をそらせることができなくなっていた。

 脅している――。
 あの人は、私を脅している。私が怖がっているのを楽しんでいるのだ。

 次の瞬間、朱美は息を呑んだ。
「…………」
 男が、こちらに向かってきたのだ。
 長身を誇示するようにして、ゆっくりと朱美のほうに向かって歩いてくる。
 バッグを抱きしめ、朱美は男から目をそらせた。

 どうしたらいいのだろう。
 いやだ、たすけて……。

 逃げなきゃ、と思った。
 なのに、身体が動かない。後ろの車両に逃げるのだ。こんなところにいたらだめ。
 あいつが来る。
 しかし、立ち上がることすらできなかった。

 そして、男は朱美の前に来て、ピタリと足を止めた。覆い被さるように朱美の前を塞ぎ、見下ろしている。

「あの」

 男が言った。
 朱美は、その声に飛び上がりそうになった。
 目を上げることができない。男の汚れた靴が、自分の靴の数センチ前の床を踏んでいる。

「ええと、真鍋朱美さんですよね」
「――――」

 絶望的な気持ちになった。
 名前を呼ばれた……。
 この男は、私の名前を知っている。電話も知っているし、住んでいるところも、名前も、なにもかも知られている――。

「あの、誤解なんです」男は、続けて言った。「僕は、あなたが考えているような人間じゃないんです」

 やめて、と叫びたかった。
 しかし、声が出てこない。
 男の声は、低く、まるで粘り着いてくるように響く。頭の上から、押さえつけられているような声だった。
 自分の身体が、震えているのに気づいた。その震えが止まらない。

「僕じゃないんですよ。真鍋さんのところに電話をしたり、コンビニの前から窓を見上げたりしているのは僕じゃないんです」
「やめてください……」

 必死で喉から声を絞り出した。
 なのに、自分でも聞き取りにくいほど小さい声にしかならなかった。
 泣きたくなった。
 泣いたってどうにもならないことはわかっている。だけど泣きたかった。

「なんですか?」
 男が、あざ笑うように訊き返す。
 朱美は懸命に首を振った。

「やめてください」
 ようやくそれだけを言った。
 言った自分の声が、情けないほど震えていた。

「信じてください。真鍋さんの勘違いなんですよ」 粘着質の声が、また、たたみかけるように言う。「僕はそんなことをする男じゃないんです。ほんとです。信じ――」
 持っている限りの勇気を振り絞り、朱美は頭を振って男を見上げた。

「やめてくださいって、言ってるじゃないですか!」
 ほとんど叫ぶような声になった。

 変質者は、ぞっとするような目つきで朱美を眺め、そしてその目でぐるりと車内を見渡した。


    変質者 

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