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 24:10 虎ノ門-新橋
 西尾琢郎(仮名)
(にしお たくろう)


     このままにしてはおけない、と思った。

 誤解なんだもの。そんなの誤解だ。
 僕は変質者なんかじゃない。だいたい、真鍋朱美がどこに住んでいるのかも、僕は知らないのだ。もちろん彼女の電話番号も知らない。コンビニの前の公衆電話から電話をかけたことなんてない。PHSが使えないようなときは、もちろん公衆電話を探すこともあるけど、コンビニの前から電話なんて……。

 西尾(仮名)は、よし、と一つうなずいて、車両を後ろに向かって歩き始めた。
 真鍋朱美が、大きく眼を見開いた表情で西尾(仮名)を見つめている。

 ほら、ビックリしてる。
 そりゃそうだ。彼女は、僕のことを変質者だと思っているんだ。思い込んでいるんだ。だから、ビックリするのがあたり前だ。
 ちゃんと説明しなきゃだめだ。誤解は、早いうちに解いたほうがいい。なるべく早いうちのほうがいいのだ。

 サラリーマンたちのグループの横を抜けようとしたとき、彼らの中からが一人、西尾(仮名)と入れ替わるようにして前のほうへ歩いて行った。
 真鍋朱美の前に立ったが、そのときはもう彼女は西尾(仮名)を見てはいなかった。バッグをつぶそうとでもしているかのように胸に抱きしめ、自分の足下に目を落としている。

「あ、あの……」

 声をかけた途端、真鍋朱美の肩がビクンと上下した。でも、彼女は顔を上げてはくれなかった。

「ええと、真鍋朱美さんですよね」
「…………」

 彼女の肩が、また大きく上下する。
 左に立っている男が、チラリと西尾(仮名)のほうへ視線を寄越した。誰だったっけ、と考えてみたが、思い出せなかった。パソコンを開けば確かめることもできるが、別にそんな必要はない。問題なのは、目の前に座っている真鍋朱美なのだ。
 彼女の隣に腰を下ろそうと思ったが、西尾(仮名)はそれを思い止まった。隣に座るのは、なれなれしすぎる。かえって嫌がられてしまうかもしれない。

「あの、誤解なんです。僕は、あなたが考えているような人間じゃないんです」
「…………」

 真鍋朱美は、なおさら縮こまるようにして、バッグの上に顔を伏せた。小さく首を振ったように見えた。

「僕じゃないんですよ。真鍋さんのところに電話をしたり、コンビニの前から窓を見上げたりしているのは僕じゃないんです」
「…………」

 彼女が、下を向いたまま何か言った。
 だが、その言葉は小さすぎて西尾(仮名)には聞き取ることができなかった。地下鉄の中は、とにかくうるさすぎる。

「え、なんですか?」
 訊き返すと、真鍋朱美は首を振った。
「……やめてください」
 その声も小さかったが、今度はちゃんと聞こえた。なんだか、すごく可愛らしい声だった。

「信じてください。真鍋さんの勘違いなんですよ。僕はそんなことをする男じゃないんです。ほんとです。信じ――」
 彼女が顔を上げて、西尾(仮名)はあとの言葉を呑み込んだ。その彼女の表情が、かなり緊迫しているように感じられたからだ。

「やめてくださいって、言ってるじゃないですか!」

「…………」
 その大きな声に、西尾(仮名)はたじろいだ。
 つい、車内の左右に目をやった。

 乗客たちの眼が、西尾(仮名)を見つめていた。


 
    真鍋朱美     左に
立って
いる男
 

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