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 24:11 虎ノ門-新橋駅-銀座
 西尾琢郎(仮名)
(にしお たくろう)


     うう……。

 西尾(仮名)は、思わず首をすくめた。
 なにも、そんな大きな声を出さなくったって……。なんだか、まるで僕がこの真鍋朱美に嫌がらせでもしてるみたいじゃないか。

 朱美は、また下を向いてしまった。
 周囲の乗客たちが訝しい目でこちらを見ている。

 こんな注目のされ方は嬉しくない。身体が縮んでしまいそうになる。まあ、普段から、やや持て余し気味の図体だと自分でも思っているから、ほんとうに縮んでくれたら少しは扱いやすくなるとは思うんだけど……。
 いや、そんな問題じゃない。

 とにかく、この誤解を解かなくっちゃ。

「勘違いなんですよ。ほんとに。僕じゃないんですよ」
 重ねて言ってみるが、聞こえているのかいないのか、真鍋朱美は脅かされたカメみたいに俯いたままだった。

 どうしよう……。
 どうやったら、僕の言葉を信じてもらえるんだろう?

「お願いしますよ。ちゃんと説明しますから、聞いてくれませんか」

 でも、やっぱり朱美は下を向いたままだった。
 完全に、西尾(仮名)が変質者だと思い込んでいる。そう、先入観ってヤツだ。被害妄想だ。そんなものをこっちへ向けられても困ってしまう。

 なにもかもが井上夢人のせいだ。
 あいつが悪いのだ。
 あいつは人をもてあそんでいる。僕たちの行動や言葉や気持ちを、勝手に作って喜んでる。
 何様だと思ってるんだ!

 作者だぁ? なに言ってやがる!

「これですよ、これ」
 と、西尾(仮名)は手に持っていたノートパソコンを朱美のほうへ向けて見せた。
「インターネットなんですよ」
 朱美は、差し出したパソコンを避けるようにして顔を背ける。理解できないようだった。

 そりゃ、そうだ。いきなり、ここが小説の中だなんて言われても、信じられないだろう。でも、わかってもらわなきゃ困るのだ。

「小説なんです。ウソじゃない。信じてください」

 ハッとしたように、真鍋朱美は顔を上げた。しかし、脅えたような表情のまま、彼女はまた下を向いてしまった。

「これは小説なんですよ。本当なんです。真鍋さんも、僕も、実際には存在していないんです。全部、作り物なんですよ」
「…………」

 言って、西尾(仮名)はちょっぴり後悔した。
 なおさら警戒させてしまったのかもしれない。
 だって、こんなわけのわからない話はない。西尾(仮名)自身だって、頭がどうにかなりそうなのだ。考えていけばいくほど、頭がこんがらがってくる。

 誰だって、自分が小説の登場人物で実在していないなんて思いたくないだろう。そんなことが信じられるわけがない。

 小説の中──。

 不意に、窓の向こうが明るくなって、西尾(仮名)は目を上げた。
 新橋に着いたのだ……。

 でも、なんとかしてこの朱美にだけはわかってもらいたい。たぶん、ここが小説の中だということを知っているのは、僕だけなのだ。他の登場人物たちはどうでもいい。せめて、この朱美だけには──。

「あ」

 いきなり、すごい力で体当たりを食わされた。真鍋朱美がはじかれるようにシートから飛び上がり、西尾(仮名)を押しのけるようにして、開きかけたドアのほうへ突進して行った。

「…………」

 声を掛ける間もなかった。
 真鍋朱美の姿は、あっというまにホームの向こうへ消えて行ってしまった。

 そんな……。

 ホームに並んでいた客たちが次々に乗り込んでくる。
 シートへ移動する客たちを避けながら、西尾(仮名)は吊革につかまったまま、ぼんやりと窓の外のホームを眺めていた。

 行ってしまった──。
 とうとう、誤解を解くことはできなかった。

 ドアが閉まり、電車が動き始める。
「…………」
 右手のほうで、ドン、という鈍い音がして、西尾(仮名)はそちらへ目をやった。
 男が床に倒れている。その男を、乗り合わせた客たちが、なにごとか、という顔で注目していた。

 男が立ち上がるのを横目で眺めながら、西尾(仮名)は、自分の今の気持ちをどのように処理したらいいものか判断できずにいた。

 つまり、床から立ち上がった男だって、登場人物の一人にすぎない。あの男は、電車の急発進によって倒れたと自分で思っているかもしれない。しかし、そうじゃないのだ。
 彼は、井上夢人によって転ばされたのだ。

 許せない──と、西尾(仮名)はパソコンを持っている手に力を入れた。


 
    真鍋朱美 その男 

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