![]() | 24:11 虎ノ門-新橋駅 |
こんな恐怖を味わうのは、生まれて初めてだった。 真夜中の地下鉄の車内で、目の前を変質者に立ち塞がれている。車内には他の乗客もいるが、誰も助けてくれようとはしない。それが当然のことなのだろう。この東京で、他人のトラブルに手を貸してくれる人間などいない。 それがわかっているからこそ、この変質者も図々しく朱美を見下ろし続けているのだ。 どうしよう……。 恐怖で、どうかなってしまいそうだった。 電車の揺れが、時折男の大きな身体を朱美のほうへ近づかせる。いや、この男は、揺れを利用してわざとそうしているのだ。 私が怖がっているのを、楽しんでいる……。 「…………」 男が、頭上で何か言った。 しかし、電車の走行音に言葉はよく聞き取れなかった。聞きたくなかった。朱美は肩の間に首を埋めるようにして俯いていた。顔を上げることができない。 「…………」 また、男が何かを言う。 やはり言葉は聞き取れない。 聞き取れないにもかかわらず、その声は低く響く。どこか粘りのあるような、低くて不快な声。 たすけて──。 朱美は、叫びたかった。 一度は叫んだ喉が、糊で固められてしまったように塞がっている。バッグを胸の前で抱きしめた手が、自分でも情けないほど震えている。 また男が口を開いた。ノートパソコンを持った手を目の前に突き出され、朱美は思わず身体を引いた。 「インターネットなんですよ」 と男は低い声で言った。 言葉は聞き取れたが、何を言われているのかわからない。 「小説なんです。ウソじゃない。信じてください」 「────」 一瞬男のほうへ顔を上げ、見下ろしている気味の悪い眼と視線が合って、朱美はまた慌てて顔を伏せた。 背筋に寒気が走る。 「これは小説なんですよ。本当なんです。真鍋さんも、僕も、実際には存在していないんです。全部、作り物なんですよ」 男は、手のパソコンを朱美の顔の前で上下させながら言った。 狂っている……。 この男は、異常なのだ。 もちろん、異常だ。無言電話をかけ続け、毎晩コンビニの前から女性の部屋を見上げている男が正常であるわけがない。 「…………」 お尻の下のシートの振動が緩くなった。 スピードが落ちている。 そして窓から駅の光が射し込んできたのを見たとき、朱美は思わず泣きたくなった。 電車が、朱美の気持ちをいらだたせるように、ゆっくりと停止する。 ガクンという小さな衝撃とともに電車が停まり、ドアが開いた瞬間、朱美は意を決して前に立っている男を突き飛ばし、バッグを抱いたままホームへ飛び出した。 そのまま、後ろを振り返らず、朱美は走った。 男が追いかけて来ているのかどうか、それを確かめるのが怖かった。 恐怖が足をもつれさせる。歩いている客にぶつかりそうになりながら、必死に階段へ向かった。 階段の上り口に辿り着いたとき、朱美は、本当に泣き出していた。 |
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